今回は西大宮病院の関先生に、地域医療を守るための取り組み、
そして鹿島アントラーズのチームドクターとしてのご経歴を語っていただきました。
地域の医療を守る
中:今回は西大宮病院の理事長兼病院長、関純先生にお話を伺います。
先生どうぞよろしくお願いいたします。
関:よろしくお願いします。
中:まず貴院の特徴について教えていただけますか。
関:198床という規模で、地域に根ざした病院経営を目指しています。
診療科は内科、外科、整形外科、リハビリテーション科、形成外科、循環器科、消化器科、
脳神経外科、泌尿器科、眼科、麻酔・ペインクリニック科などがありますが、
整形外科の患者さんが非常に多いことが特徴です。
また、回復期リハビリ病棟を開設しており、近隣の大病院からの紹介患者さんを多数受け入れています。
中:地域の医療を守るという方針がうかがえる体制ですね。
関:はい。
病病連携や病診連携により、地域の人に安心して医療が受けられる環境の維持を目標としています。
鹿島アントラーズとともに
中:では、後ほど病院経営のお話や先生のご経歴についてお尋ねいたしますが、
その前に、あちらにかかっているユニフォームが気になるので、
どのような由来があるものなのかお聞かせいただけますか。
関:もう35年前になりますが、日本サッカーリーグの2部に住友金属蹴球団というチームがありまして、
そのチームドクターを担当することになりました。
それから8年経ちジーコが入団し、2年後にJリーグがスタートし、
チームは鹿島アントラーズとして生まれ変わり、一気に注目されるようになりました。
さらにそれから25年がたち、今年で35年、チームドクターを務めています。
今から4年前、私が60歳になった時にチーム全員から還暦の記念にと、
背番号60のユニフォームをサプライズでいただいたというわけです。
中:大切な記念のユニアォームですね。
Jリーグのチームドクターになられるということは、先生ご自身もサッカーをされていたのでしょうか。
関:医学生時代の6年間は、サッカーばかりしていました。
子どもの頃からスポーツ好きで「将来は体育の先生になろうかな」と考えていた時期もあるほどです。
ただ、高校3年ぐらいになりますと、父親が医師であった影響なのだと思いますが、
いつのまにか医学部を目指そうと考えるようになっていました。
スポーツ好きから整形外科医に
中:医学生時代のエピソードをお聞かせください。
関:昔のおおらかな時代の医学部でしたから、スポーツをして遊んでお酒を飲んで、
試験前だけ集中的に勉強するという生活でした。
今は医学部にしても看護学部にしても、かなり知識を詰め込まないと国家試験に受かりません。
私は良い時代に生まれたのではないかと思っています。
中:整形外科をご専門として選ばれたのは、どのような理由でしょうか。
関:それもやはりスポーツ好きと関係があります。
大学時代を通してサッカーを続け、骨折したり靭帯を切ったりと大体の怪我は経験しました。
ある時、怪我をして大学病院の整形外科を受診しますと、先生方が周りに集まり
「お前、治してやるから整形外科に入れ」と言われ、有無を言わさず入れられたような感じです。
アスリートの復帰を支える
中:ご自身でスポーツをされ、
なおかつ整形外科医になられスポーツ外傷などを治療される立場になられたということですね。
整形外科の魅力はどのようなことだと思われますか。
関:怪我をしたスポーツ選手を復帰させてあげることです。
選手は誰でも、少しでも早く怪我を治しスポーツを再開したいと願っています。
その期待に応えて、予定した通りに手術を成功させ、リハビリを経て、
しっかり治してから元のようにグランドに立たせてあげられた時は、やはり嬉しくなります。
中:先生は今でも手術をされるのでしょうか。
関:昔はバリバリ執刀していましたけれど、今は理事長・院長の仕事が増えてきましたので、
現場のドクターに任せるようになりました。
それでも時間があれば、たまにですが手術室へ入るようにしています。
中:先生ご自身がサッカーを経験されていますので、鹿島アントラーズの選手も安心して受診されてくるのではないかと思います。
関:同じスポーツをやっていましたから、確かにコミュニケーションをとりやすいですね。
昨日も鹿島に行って、帰宅したのは夜の1時過ぎでした。
ナイターは夕方7時から始まりますし、試合後のミーティングにも参加しますので、
かなり遅くなってしまいます。
日本代表海外遠征
中:ミーティングでは、健康面のアドバイスをされるのですか。
関:そうですね。
怪我の治療だけでなく、アクシデントの予防のアドバイスも大切です。
栄養の取り方や水分の取り方なども含めて、身体に関して全般的な指導をします。
中:話を少し戻しまして、ご卒業後のご経歴についてお聞かせいただけますか。
関:先ほど申しまたように卒業後はまず大学の整形外科学に入りました。
医師になって3年目に茨城の関連病院へ出張している時期があり、その時、
住友金属蹴球団から「チームドクターとして来てくれないか」というお話をいただきました。
それからしばらくは大学に籍を置きつつチームドクターもするという二足の草鞋を履いていたのですが、
徐々にサッカー関連の仕事が忙しくなり、そのまま大学にいるわけにいかなくなってきた頃に、
当院へ移ってきました。
当院に着任してからは日常診療をしながら、日本代表、オリンピック代表、
ユース代表、ジュニアユース代表などから依頼されるままに応じ、
チームドクターとして数多くの海外遠征に随伴したりしていました。
理事長・院長に就任
中:院長に就任されたのはいつでしたか。
関:今から6年前です。
当院には副院長として赴任したのですが、6年前に前理事長・院長が身体を壊して急遽引退し、突然、
推されるようなかたちになって引き受けたという経緯です。
中:病院内のすべての管理を担うお立場になられることに対して、
プレッシャーや不安はございませんでしたか。
関:不安はやはりありました。ただし、不安はあっても「やるしかない」という使命感の方が強かったです。
後編に続く