結核療養所として千葉県匝瑳市の地に生まれ、
その後80余年に亘り、地域を支え続けてきた社会福祉法人九十九里ホーム。
今回は、同法人の中核施設である九十九里ホーム病院の田中方士院長にお話を伺い、
先生のこれまでの歩みと、院長として今後めざしていくビジョンなどについて、語っていただきました。
歴史ある医療・介護・福祉の総合施設
久保:今回は、九十九里ホーム病院の院長である田中方士先生に、インタビューをさせていただきます。
先生、よろしくお願いいたします。
田中:よろしくお願いします。
久保:はじめに貴院の特徴を教えていただけますか。
田中:まず、病床としては、一般病床66床と療養型病床83床を有しており、
一般病床のなかの22床は地域包括ケア病床として運用しています。
機能としては、内科、整形外科、泌尿器科などの診療に加え、リハビリテーションに力を入れており、
一部急性期を担保しながら、回復期や慢性期を中心に担っている病院です。
また、当院の母体は、社会福祉法人九十九里ホームですが、
法人全体としては、老健や特養、訪問看護などの施設を多数運営し、
医療・介護・福祉に関する総合的なサービスを提供しています。
久保:ありがとうございます。
そういった方向性は開設当初からのものですか。
田中:いいえ、そうではありません。
当法人は、千葉県の北東部のなかでも、古い歴史を持っており、
その起源は、1935年に開設された結核療養所に遡ります。
開設者は、英国人宣教師のA.M.ヘンテ女史という方ですが、
当時日本で問題となっていた結核患者を救うため、私財を投げ打って当地に結核療養所を作ったと聞いています。
その後、地域とともに歩むなかで、社会福祉法人への組織変更を行うなど、
現在の姿へと成長し、結核療養所のあった場所には当院ができたという経緯ですね。
久保:なるほど。現在は、急性期・回復期・慢性期を担う病院として機能しているということですが、
この地域の医療資源というのはどういった状況なのでしょうか。
高度急性期病院と連携し地域を守る
田中:千葉県の外房側は、大規模な病院が多い地域だと思います。
三次救急を担う国保旭中央病院や亀田総合病院があり、他にもいくつか急性期を担う病院がありますので、
高度医療・高度急性期医療については、ある程度充実しているのではないでしょうか。
ただし、それだけでは不十分でして、高度急性期病院が機能するためには、
高度急性期・急性期を脱した患者さんを受け入れる、次のステージの病院の存在が重要となります。
久保:その受け皿を貴院が担っておられるいうことでしょうか。
田中:おっしゃる通りです。
もちろん、高度急性期・急性期を脱した後に、そのままご自宅に帰れる方もいらっしゃいますが、
ご自宅へ帰るためにリハビリテーションが必要な方や、しばらく施設療養が必要な方、
そもそもご自宅へ帰ることが難しい方も多くいらっしゃいます。
当院は、複数の病期を担う病床を持ち、法人として老健や特養などの施設を有していますし、
理学療法士や作業療法士といったリハビリテーションスタッフも20数名おりますので、
その機能を活用し、患者さんを生活にお帰しする役割を担っていると思います。
久保:高度急性期病院との連携はうまくいっているのでしょうか。
田中:高度急性期病院との関係は非常に良好だと思います。
当院の主な連携先として旭中央病院がありますが、
私は、こちらの病院に赴任する前、旭中央病院に勤務していたのですね。
また、現在も、非常勤医師として人間ドック外来の応援に行っており、
同院とは連携の土壌となる顔の見える関係が構築できています。
ですので、急な転院依頼などについても、非常に円滑に進めることができていますね。
久保:そうなのですね。
田中先生は、旭中央病院時代、どちらの診療領域を担っておられたのでしょうか。
泌尿器と緩和ケアの経験を今に活かす
田中:もともと私は泌尿器科が専門ですので、
旭中央病院でも長年、泌尿器科領域の専門診療を行ってきました。
ただし、その後45歳くらいで緩和ケアに移りましたね。
久保:緩和ケアに移られたのはなぜですか。
田中:泌尿器科時代の私は、我武者羅に診療を行ってきました。
結石破砕については一時期日本で指折りの症例数をこなしていましたし、
透析のシャント造設についても、かなりの数を行ってきたと思います。
勤務自体も、早朝に出勤して、夕方6時頃まで手術を行い、
そこから夜の10時近くまで仕事をする毎日でしたし、熱があっても無理を押して仕事を続けていましたね。
そのような生活を40代前半まで続けてきたのですが、
流石に50代まで同じ生活を続けたら、自分が倒れてしまうのではないかと考えるようになったのです。
その時に、タイミング良く緩和ケア病棟がオープンするという話がありましたので、
今後を考えて、手を挙げさせていただきました。
久保:緩和ケアに移られて、仕事は楽になったのでしょうか。
田中:それが、そうでもなかったです。
緩和ケアでは患者さんを看取ることが重要な仕事になりますが、
看取りの依頼というのは、もちろん昼夜関係無く来ますので、
結果的に24時間仕事を続けているような状態でした。
看取りの患者数も多く、最終的には2,400人ほどの患者さんを看取ったと思います。
久保:緩和ケアというのは、辛い場面も多々あるのではないですか。
田中:そうですね。私が一番辛かったのは、20歳くらいの女の子の母親を看取った時ですね。
その女の子は少し自閉症気味だったのですが、母親が亡くなり、私が病室にお見送りに行くと、
女の子が虚ろな顔で上を向いていたのですね。目の焦点も合っていませんでした。
その表情を見た時、「これから自閉症を抱えるこの子を誰が守ってあげるのだろう」と、
割り切れないというか、無力感というか、強く感じた覚えがあります。
今でもその表情は忘れられません。
久保:それは、辛い経験ですね。お話ありがとうございます。
緩和ケアを含めた、先生のこれまでのご経験は今にどのように活きていらっしゃいますか。
田中:泌尿器科という診療科は腎臓や副腎など多くの臓器と密接な関係があり、
全身管理の力が問われる診療領域ですし、緩和ケアでは精神科的なアプローチが必要になります。
そのため、私はこれまでの経験で、専門である泌尿器科だけではなく、
内科、精神科を含めたマルチな診療能力を培ってこられたと思います。
当院に赴任してからは、内科診療も行っていますので、これまでの経験が十分活きていると思いますね。
久保:なるほど。
少し話は変わりますが、田中先生はどういった理由から医師になられたのですか。
生きていくために医師になる
田中:実は、私はそれほど高い志を持って医師になった訳ではありません。
もともと若い頃の私は、当時観ていたドラマの影響もあり、タイムマシンに興味がありまして、
中学生の頃には相対性理論を読み漁っていました。
そのため、医学部に行く前は、千葉大学の理学部数学科を卒業し、教員免許まで取得しているのですよ。
久保:それがなぜ医学部に変わられたのでしょうか。
田中:私は小さい頃、貧しい家庭に育ってきましたので、
ずっと「そこから這い上がりたい」という気持ちを持っていました。
大学でも、必要な費用をアルバイトや奨学金などで賄いながら、数学を学んでいましたが、
学ぶにつれ、タイムマシンの実現が難しいことも分かってきましたし、
何より数学でお金を稼ぎ、貧しい環境から這い上がるのは難しいと思うようになったのです。
それで、数学科の卒業と同時に他大学の医学部にそのまま入学したという経緯です。
要するに、生きていくために医師になったということですね。
後編に続く