第20回目のインタビューは、九段坂病院の佐藤八重子看護部長です。
前編では、佐藤部長の学生時代から新人時代、転機となった患者さんとの関わりについて伺っています。
甘えん坊のおばあちゃん子から看護師に
なぜ看護師になられたのですか?
佐藤:共働きの両親に代わっておばあちゃんにすごくかわいがって育ててもらえたのに、そのかわいがってくれた人に何もできなかったというのが発端です。
祖母にできなかったことをしたいと考えて看護師を志望しました。
母が一生懸命祖母の介護をしているのも見ていました。
母の後ろ姿を見ていたのかもしれませんね、今思うと。
中学生の頃から看護師になりたいと考え始め、高校の進路では迷うことなく看護学校に行くことを選択しました。
看護学校を選択する際の決め手はどんなことだったのでしょうか?
佐藤:身体が弱くて、中学・高校とよく保健室に行っていたんです。
高校の養護教諭の先生に「看護師になりたいんです」と話したら、ご友人が教務主任をされているということで、そこの学校を紹介してくださったんです。
看護学校の生活で思い出に残っているエピソードはありますか?
佐藤:茨城の全寮制の看護学校でした。
同級生とは今でもすごく仲が良くて、同窓会を開いています。
看護学校時代は全てが濃密な生活でしたね。
印象に残っていることは解剖に立ち会わせてもらえたことです。
夜中に教員から連絡がきて、病院の敷地内に寮がありましたから、一緒に行って解剖の見学をさせてもらえた経験があります。
入学してからギャップは感じませんでしたか?
佐藤:なかったです。
とにかく勉強したい、面白い、国家試験受からなくちゃという感じでした。
休みになると友達と喫茶店に行って一生懸命勉強した思い出もあります。
「看護師になりたい」という思いが強かったですし、ここを通過しなければ看護師として働けないという思いがありましたので。
病院選びはどのようにされたんですか?
佐藤:付属の系列病院がいっぱいありましたが、一番規模が大きいということもあって、よく知っている実習先の付属病院を選びました。
あまり深い意味はなかったのですが、二次救急をやっていましたので急性期のことも勉強できるので、迷うことなく。
入職されて配属の希望はありましたか?
佐藤:どこでも勉強になるなと思っていましたが、内科系の病棟で働きたいと思っていました。
希望を出したら通って、そのまま内科病棟となりました。
希望通りの部署に勤務されて病院に慣れるまで、ちょうど学習してきたことと現実とのギャップが出始めるような段階に、何か戸惑われるようなことはありましたか?
佐藤:とにかく勉強が楽しかったので、あまりなかったです。
今も学生や新人たちに言うのですが、学生時代の勉強は「国家試験に受からねば」が目的だったけれども、臨床に出ると全然勉強に対する姿勢が違ってくるのだと。
資格を取っただけじゃだめなのです。
目の前で苦しんでいる患者さんがいて、その苦しみを取るためにどうしたらいいか、いろいろな勉強をせざるを得ないし、したくなるのが当たり前と思っていました。
私はつらいというよりも必死でした。
厳しい先輩がいて、引き継ぎに行っても「あなたの話なんか聞いていられない」って言われてしまって。
そうするとみんなで「絶対聞いてもらうために、どうやったらいいか頑張ろう」って結束力を高めました。
救急が院内で一番多く入る病棟でしたし、ターミナルの人もいますし、人工呼吸器を付けた患者さんもいらっしゃったり、一番忙しいところだったということもあって、貪欲に「学べるものは学びたい」と思っていた時期でした。
患者さんと向き合えていなかった後悔が転機に
管理職になるタイミングはいつ頃訪れたのでしょうか?
佐藤:私は茨城の病院を実は4年で辞めたんです。
そこで出会った患者さんがいたから、私は今管理者としての自分があるんだなという思いがあります。
この患者さんとの出会いは、看護部長として新採用者のオリエンテーション時に、
私の失敗事例として必ず伝えているメッセージです。
看護師4年目ぐらいですと、結構生意気になってきて、それこそ「私は何でもできる」という大きな勘違いをしていた時期でした。
そんな時に乳幼児のお子さんがいる白血病の患者さんに出会いました。
当時まだ病名をご本人に伝えるという時代ではなく、ご主人の希望もあって、ご本人には悪性貧血として日々治療を行っていました。
抗がん剤治療をくり返す日々の中、患者さんとともに、できるだけ自宅にいるような環境の中で入院治療ができるようにと考えて日々の看護を行っていました。
ところがある日、患者さんが疑問を持ち始めたのです。
「私は本当に貧血なの?」と研修医に向けて何回も何回も尋ねられたらしくて、その研修医がいたたまれなくなって「実は白血病です」って言ってしまったんです。
スタッフみんな驚きましたが、その患者さんが白血病だと知ったことを機に、みんな「もし死のことを聞かれたらどうやって対応したらいいのか」と思い始めました。
「死を宣告されたのと同じだから、きっと死んじゃうんじゃないか」と、私や先輩たちは勝手に思っていたんです。
患者さんから逃避するようになり、患者さんが生きていることを確認し、窓のロックはされているかと飛び降りしないようにチェックしたら、最低限の会話でさっさとナースは退室するようになっていたのです。
私もそうでした。
でも、そのような日々にいたたまれなくなったわけです。
私も一生懸命キューブラロスの「死の受容」やアルフォンス・デーケン先生の図書など読みましたが、頭で思っていることを行動にはなかなか移せなくて。
このままじゃやっぱりおかしいと思って、ある日「何言われても何もできないかもしれないけれど、とにかく椅子に座って目と目を合わせてみよう、今できるのはそれぐらいだ」と思って患者さんのところに行ったんです。
そうしたら椅子に座るなり、患者さんがボロボロ涙を流されたんです。
「みなさんは私が白血病と言われる前は一緒に戦ってくれた。だけど白血病って言われた途端に私が自殺をすると思ったんですね」って。
「でも私は乳飲み子がいて、とにかく1日でも長く生きたいし、生きねばならないと思っていた。だから私は何をしたらいいのっていうことを看護師さんたちに聞きたかった。だけどみんな窓の鍵を見たらそそくさと帰っていくし、私は孤独で寂しかったしつらかった」
「あなたが初めてそこに座って私のこの苦しみを聞いてくれたわ」とおっしゃられたんです。
その時に、私は「こんな苦しい思いを患者さんにさせてしまった。なんてひどいことをしてしまったのだろう」と衝撃を受けました。
当時私は「看護技術は全てできる」と自信満々だったんですけれども、本当に患者さんと向き合うということが実はできていなかったということに、初めて気付いたのです。
その後はどうされたのでしょう?
佐藤:それで看護を一からやり直そうと思って退職しました。
患者さん中心で、患者さんと向き合うということをきちんと系統的に学習できるところってどこなんだろうと探していた時に、虎の門病院でやっているリーダーシップコース(現プライマリ・ナーシング入門コース)を見つけたんです。
「これだ!」と思って。
当時から虎の門病院は、既卒看護師の採用は狭き門でした。
タイミングが良かったと言いますか、ちょうど新病棟をオープンする年でしたので、幸運にも採用していただけました。
管理職がいてくれてこそ可能になる看護実践
ご自身のやりたいこととタイミングが合ったのですね。
なるべくして管理コースに乗っていかれたという。
虎の門病院でのリーダーシップコースを受けられていかがでしたか?
佐藤:すごく良かったです。
患者さんと向き合うということを学習できましたし、実践にも生かせたので、転職して本コースを受講したことは、間違いじゃなかったと自負していました。
その後4〜5年主任をしていて、疲れたなと思った頃、今度は師長の話がきました。
「やってだめだったらそのとき辞めてもいいからやりなさい」と言われ、チャレンジしてみました。
主任の頃は同じことの繰り返しで、疲れたから辞めたいと思っていたのですが、師長になってみると「自分のやりたい看護を実践できていたのは師長がいたからだ」と気付いたんです。
だから今度は私がその役割をしなくちゃいけないと考えたら面白くなったんです。
「あなたたちがやりたい看護を実践する環境を私が整えるから」という姿勢で師長として関わってきました。
そうしたらある時主任に「佐藤さん、師長やってて面白いですか?」と聞かれたんです。
「楽しいわよ」と答えたら、「初めて会いました」と言われて。
「他の人から師長はそんな楽しいものじゃないと聞きましたが、どこが楽しいんですか?」とまた聞いてきたので、私が思っていることをそのまま伝えました。
「私が主任のときは患者さんの近いところにいられたこともあって、確かに楽しかった」
「楽しいと思えたのは、上司がいたからで、今度は私がその番だと思うと見方が変わった」
「師長の立場は、患者さんに一番近いところではないけれど、客観的には私がやりたいと思っている看護を実践できる」
「主任たちがきちんとやってくれれば、それがイコール私の満足のいく看護を患者さんに提供できると考えられるわよ」
(当時の看護部長のお言葉を借りて)「主任は一本一本の木々を見て、師長は森全体を見るのよ。そう考えると同じ現象でも職位で見方が変わって面白いのよ」と話しました。
「師長は大変だ」とか、「やらされた」とか何となくそちら方面の話は多く聞くことがありますが、やはり輝いてそのポジションを楽しまれている師長さんからお話を聞けるということが次のステップへつながるんだと思います。
すごく素敵な師長さんだったのですね。
そこで師長を経験されて、その後は?
佐藤:当時の虎の門病院は、1人の師長が3〜4つの病棟を持っていたんです。
最初の師長経験は整形外科病棟、内科・外科の混合病棟と、透析室の3部署管理していました。
そこに主任がそれぞれ2人ずついるので、いかにその主任たちを動かすかなんですね。
小さい病院の総師長のようなことを早々とやっていました。
人材管理の役割をメインにされていたのですね。
佐藤:そうですね。
現場は主任たちがしっかりやっていますから、主任のほうが患者さんとの関わりは多いです。
診療科の医師とのやりとりや対外的な交渉は全部師長がやりますので、そこはしっかりと線引きされていました。
当時の虎の門の看護部長が、「師長と主任が同じようなことをしてはだめだ」と。
主任の役割、師長の役割というところで、主任は現場の患者さんに対する責任を持ってほしい。
師長は患者さんのこと全体もそうだけれども、職員全体も含めての責任があるんだからということで、役割をしっかりと明文化されていました。
でもそのほうが師長に人事権が委ねられていて、業務のコントロールがしやすかったですね。
その後次長になられて、また役割が変わっていかれたと思うのですが。
佐藤:虎の門病院は本院と分院があって、最初私は分院の管理師長をやっていて、そして次長として分院300床のところの総師長になりました。
今までは病棟間のことだけやっていればよかったのが、300床全体のところを見るようになり、また見方が違ってきました。
当時虎の門病院全体で1,200床だったので、看護部長1人、次長が私1人、師長は22人いました。
一般の大学病院ですと次長(副部長)は3、4人といるのですが、当時の虎の門病院は、先ほどもお話ししたように、一人の師長が3〜4看護単位を管理していましたので、師長が自立して管理業務を遂行できていました。
そういう背景もあって、次長(分院の総師長)も一人でしたが、7対1となって、だんだんナースが増えてきたので、本院にも次長を置くということで私が本院に移って次長をやり、教育責任者という役割を兼任することになったのです。
当時看護教育室には、教育担当専従スタッフが3名、業務量測定担当が2名が配置されており、私はマネジメントする程度の役割であとは部長の補佐が中心でした。
虎の門病院は日本でも早くから大卒看護師を多く採用してきた経緯があります。
以前1つの病棟を全員大学卒のナースにするというトライアルをした研究発表があったそうなのですが、そのぐらい早い時期から大卒が多かったんです。
そういうこともあって、これから先を考えたら上司が専門学校卒ではと思い、大学に進むことを考えました。
それでちょうど次長になる前ぐらい、師長のときに大学の社会学科に入学しました。
4年間2足のわらじの生活でしたが、すごく大変だったなと今でも思います。
後編へ続く
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No.20 佐藤八重子様(九段坂病院様)後編「”ぬくもりのある看護”のために、同じ価値観で看護を語りたい」
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