No.231 大幸薬品株式会社 柴田高 社長 前編:正露丸と空間除菌という二本柱の経営

インタビュー

正露丸で知られる大幸薬品株式会社の代表取締役、柴田高様はもと外科医として活躍されていたとのこと。

インタビュー前編では、メスを置き経営者になられるまでのご経歴を中心にお話しいただきました。

子どもの頃からのライフプラン

中:今回は大幸薬品株式会社、代表取締役社長の柴田高様にお話を伺います。

社長どうぞよろしくお願いいたします。

柴田:よろしくお願いします。

中:最初に貴社の事業概要をお聞かせください。

柴田:大幸薬品と言えば、多くの方がよくご存知かと思いますが、まずはラッパのマークの「正露丸」です。

長年この正露丸を中心に事業展開してきました。

この正露丸に加え、14年前、私が医師を辞め当社副社長に就任してからは、二酸化塩素を用いた

衛生管理製品「クレベリン」を開発し、空間除菌というコンセプトを打ち立て、拡大戦略をとっています。

中:社長が医師でいらっしゃる点が一つの特徴かと思いますので、

まず社長のご経歴についてお尋ねいたします。

医師になられた動機から教えていただけますか。

柴田:実家が正露丸の会社ですから、子どもの頃は「社長になりたい」と思った時期もありました。

しかし三男坊ということで、父親からは「男の子が3人も同じ会社に入ると揉めごとが起きかねない」と

言われていました。

そこで「まずは自立しよう」と考え、できれば医師になり社外から大幸薬品に貢献しようと計画し、

医学部に進学したというところです。

中:そうしますとかなり早い時期から医師を目指していらしたのですね。

柴田:小学校6年生の時の作文で「将来は医者になって一流を極める」と書いたことを覚えています。

生きている、生かされていることへの恩返しをするよう、親から教育を受けていましたので、

できる限りの使命を果たし一生悔いなく過ごそうと考えていました。

得意なスポーツ、学業は努力

中:医学生時代はどのように過ごされましたか。

柴田:私学の川崎医大でしたから学費が高く、入学時点で父親からは「これで君に投資するから

あとは自立して頑張って社会人として生きろ」と言われ、覚悟を持って過ごしました。

授業料を1時限あたりに換算すると1万円近くになります。

それなら一生懸命学んで1万円分以上の知識を頭に入れなければと頑張りました。

最終的にトップから3番目の成績で卒業でき、卒後、阪大第二外科に入局した時も学業に関するコンプレックスは全くなかったです。

中:スポーツはされていましたか。

柴田:中学の時はサッカーで大阪ベスト3まで行きました。

高校時代にはスキー1級を取り大学では大回転で入賞したりしました。

また大学から始めたゴルフは今も続けていて、クラブの代表選手にもなっています。

スポーツは得意で勉強は努力ですね。

中:すべてに長けていらっしゃり「近寄りがたい学生」のイメージが浮かびますが。

柴田:いえ、全くそうではなく、やはり大阪の人間ですから、お笑い系の楽しい学生でしたね。

今を悔いなく生きる

中:そうですか。

医師になられてからはいかがでしたか。

阪大の外科といいますと研修が厳しかったのではないでしょうか。

柴田:今から思えば軍隊に入っているような感じでしたね。

そんな環境の中、私は「川崎医大出身者は優秀であることを示さなければいけない」という使命を感じて

取り組んでいました。

結果的に博士号と専門医資格を最短で取得しました。

中:そのように常にミッションを持って達成されていくという姿勢は、

子どもの頃からのスタイルなのでしょうか。

柴田:そうですね。

私は子どもの頃から「死んだらどうなるのか」とよく考えていました。

そうしますと最終的に「死ぬ時に『良かったな』と思いたい」という大きなゴールができ、

そのために「今を悔いなく生きる」という考え方が形成されました。

その考えがベースにありますから、自ずといつも目標を掲げることになってしまいます。

チャンスは困難な環境にある

中:厳しい環境にもまず飛び込んでいくのですね。

柴田:厳しい環境にはチャンスがあります。

誰もが「大変だな」と思う所にはすぐにパッと手を挙げて「行きます」という感じです。

阪大医局に入った時に「千里救命救急センターに1人研修医を出すので希望者はいるか」と聞かれた時も、

真っ先に手を挙げました。

なぜなら千里救命救急センターは開設されたばかりの最新施設で、

短期間で多数の重症患者さんを診ることができるからです。

もちろん仕事は大変でしたが、そこでの経験はその後の医師生活の支えになりました。

看護師が協力してくれる医師

中:お話を伺っていて、社長の考え方や行動は、看護師のキャリアアップにも参考になるように感じました。

柴田:救命救急の現場では患者さんのリスク情報をスタッフが共有し、

なすべきことの優先順位を瞬時に判断していきます。

それは医師一人でできることではなく、看護師を含むチームで当たらなければ成し得ないことです。

このような患者さんが生死の瀬戸際にある厳しい場面に、医療者は、

一度は飛び込んでいかなければいけないと思います。

また、市立豊中病院の外科部長時代、私は内科の患者さんが急変した時もそこに駆けつけ、

緊急処置をするといったこともしていました。

「自分の手が届く範囲内の患者さんは絶対に助ける」という信念があったからです。

病棟を管理する看護師長からは「他科から患者さんを集めてくるのは困ります」と苦情を言われました。

しかし病院が非常に活性化しましたし、私は若い研修医や看護師から頼りにされました。

看護師は医師に比べると、やや患者さんやご家族の側に立ったマネジメントをされているため、

私のような医者の受けが良いのですね。

緊急手術となった時にも、すぐに協力的に準備をしてくれました。

メスを置き、大幸薬品へ

中:そのような実績がスタッフ間の信頼関係に繋がっていかれたのですね。

次に、医師から貴社社長に就任されるまでのご経歴をお聞かせいただけますか。

柴田:大阪府立成人病センター(現:大阪国際がんセンター)外科から

市立豊中病院の外科に赴任したのは33歳の時でした。

その時点で学位を取得し、専門医制度が始まってすぐに専門医資格を取得しました。

ほぼ全てのがんの手術ができるようになっていて、

外科部長時には年間1,200件の手術を管理するほど臨床に没頭していました。

ところが徐々に後進の指導や責任者としての仕事が増え、

それは私があまりイメージしていなかったことでした。

患者さんの近くにいて患者さんを助けることに徹しようと思っていましたから。

一方で「50歳までには次の生きがいのある仕事を作ろう」ということも常に考えていました。

その候補として開業も当然考えましたし、小規模な病院の院長としてマネジメントをしながら

臨床も続けるということも考えました。

そしてもう一つの選択肢が、大幸薬品での研究開発です。

中:三つ目の候補を選択されたのですね。

柴田:阪大で学位を取得した頃から医薬品の研究開発も続けていて、

進路を考えていた頃には伝統薬である正露丸がなぜ効くのかという疑問も科学的に解明もしていて、

正露丸を新たな戦略で拡販できる可能性に気づいていました。

さらに長年シーズを探し続けてきた中で二酸化塩素に出会い、

世界中の人達の感染症予防に利用できるのではないかという潜在力に気づいていました。

つまり、正露丸事業を再生しながら新規事業の立ち上げという、

二つの成果を狙えるタイミングで当社の副社長に就いたということです。

48歳の時でした。

後編に続く

Interview with Araki & Carlos & Kuwayama