今回は平塚共済病院の丹羽先生に「自分の怠け癖を出させないために医師を目指した」という
高校時代のお話や、これから医療職を目指す人へのメッセージを語っていただきました。
怠けてはいられない仕事を目指す
中:今回は平塚共済病院病院長の丹羽明博先生にお話を伺います。
先生、どうぞよろしくお願いいたします。
丹羽:よろしくお願いします。
中:まず、貴院の特徴を教えていただけますか。
丹羽:当院は今年で創立99年という歴史ある病院です。
旧海軍火薬廠の病院として発足し、戦後は地域に開かれた病院として再スタートしました。
心臓センターと脳卒中センターを中心としながらも、救急医療やがん診療にも力を入れ、
それらを柱として総合的に地域医療を展開しています。
また、地域診療支援病院であり、かつ神奈川県のがん指定病院に指定されています。
ただ、周産期医療に関しては近年、専門医を集中配置するという流れがあり、
この地区では近隣の平塚市民病院にまとめることになったため、当院での分娩は休止しています。
中:では続きまして、先生が医師になられようと思われた動機をお聞かせください。
丹羽:高校進学までは会社に就職して技術畑の生活をしていくのだろうと考えていたのですが、
高校入学後「自分もいずれ死ぬのだから、人について何かを知って死にたい」と思い始めました。
人は元来怠け者だからこそ科学技術が大きく発達してきたのも事実です。
自分も要領がつかめたら怠けてしまうことがわかっていました。
そこで「自分の怠け癖を出さずに生活を送るため、手抜きしないで一生懸命にやらざるを得ないものは何か」
と考え、結論として医師を目指しました。
中:高校ご入学時点では医師を目指していらっしゃらなかったのですね。
丹羽:全く考えていませんでした。
高校2年の時に思いつきました。
その考えを親に伝えると、それほど裕福な家庭ではありませんでしたから「国立しか認めない」と宣言され、
直ちに受験勉強をスタートしました。
友人には「お前は高校2年の時に付き合いが悪くなった」と今でも言われます。
学生時代にしかできないことに取り組む
中:大学は医科歯科大と伺いました。
医学生時代のエピソードがございましたらお聞かせください。
丹羽:卒業後は臨床医になるつもりでしたから、学生のうちは卒業したら経験する機会がないことを、
できるだけ多く体験するようにしていました。
例えば解剖学教室に出入りし、築地でサメの頭をもらってきて脳の比較解剖をしたり、
公衆衛生教室が毎年行っていた一週間泊まり込み農村健診に行ったりしていました。
農村健診では毎日50〜60枚の心電図を記録し、毎晩、同行していた循環器ドクターの指導を受けながら
その所見を書いていました。
おかげで正常心電図の読み方はだいぶ身についたと感じました。
中:学生時代にはご興味がおありになる分野とは別のことを経験されていたのですね。
丹羽:今の医学生を見ていますと、自分が進む領域を中心に勉強していることが多いようですね。
私はそれをとてももったいないと思うのです。
卒業すればいくらでもその領域の経験を積めるのですから、いろいろなことを経験できる学生のうちこそ、ほかのことをすべきだと思います。
看護師を目指す方も同じです。
「学生である」ということは非常に大きな“特権”なのです。
いろいろなことに挑戦できます。
学生のうちはできるだけ多くのことに、首を突っ込んでほしいです。
中:それは看護学生にとって力強いメッセージかと思います。
丹羽:私は「自分が死ぬまでに、どのくらい知らなかったことを体験できるか」ということを考えています。
チャンスがあれば可能な限り経験してみたいと思います。
未体験のことに挑戦する喜び
中:例えば、先生が臨床医から病院長になられた時も、一つのチャレンジだったのでしょうか。
丹羽:そうですね。
院長になった私が周囲からどのような評価を受けるのかという不安がありました。
院長就任以前、私は割と部下をしかって(今でいうとパワハラですね)引っ張っていたのですが、
それは常に自分自身の診療姿勢を包み隠さず見せ、信頼関係が成立していたからできたことです。
院長という立場になり自分の診療姿勢を見せる場面はなく、周囲からどんな人間かわからないように
見られている状態で、口頭の指示だけで組織をまとめていくのは難しいのではないかと考えていました。
未体験のことを始める時には不安感もあるけれども、
新たに発生する出来事に自分がどう反応するのかという興味もあります。
今でも新しい取り組みには関心があり、いずれ退職を迎えますから、
その後の新しい場面がどのように目の前に現れてくるか楽しみです。
循環器医の責務
中:とても素敵なお考えですね。
少し時間軸を戻しまして、先生がご専門領域をお決めになられた経緯をお聞かせいただけますか。
ご専門は循環器内科でしたね。
丹羽:私は昭和41年入学で47年卒業です。
この時期は学生運動によるストライキの時期に重なっていて、
6年間の大学生活の半分がストライキで時間が十分あったのです。
時間が余っているのだから何かしないともったいないとばかりに、いろいろな教室に顔を出していました。
先ほどお話しした以外に循環器の医局もその一つです。
医局のドクターに顔を覚えられると「今度の手術、お前も一緒に入るか」と誘われて
オペの助手や術後管理をしているうちに、少しずつ循環器の面白さを感じ始めました。
循環器疾患では、目の前の患者さんの様子が変化した時、直ちに何かしら手を加えなければいけません。
「ちょっと待って、マニュアルを確認してくる」という時間が許されず、その場で判断を求められます。
ですから常に怠ることができないと感じました。
それは高校時代に考えていた“怠けないための環境”に近く「これは面白い」と思いました。
中:そうでしたか。ご卒業後は医科歯科大病院にお勤めされたのですね。
丹羽:医科歯科大病院に勤めた後に、北信総合病院や信州大学に勤め、
当院に着任する前は武蔵野赤十字病院で副院長を務めていました。
後編に続く
Interview Team