第4回目のインタビューは日本大学医学部附属板橋病院の縣美恵子看護部長です。昨年7月に看護部長に就任されました。インタビュー前編では、今の縣さんを支えている患者さんとのエピソード、管理職となって奮闘されてきたお話を伺いました。
私の看護師人生を支える思い出の患者さん
縣さんの臨床経験の中で印象に残っている患者さんとのエピソードはありますか?
縣:2つの出会いがあったから今の私がある、と思っているんです。1つ目は、私が4年目で整形外科病棟に勤務していた時でした。当時私は子育てとの両立中で、患者さんにもっとちゃんといろいろなケアをしたいのにそんな余裕がまったくありませんでした。「患者さんの役に立ちたい」という思いを持って看護師になったのに今の自分はそれが全然できていないと悩んでいました。整形外科病棟ですから、動けない患者さんがたくさんいらして毎日ナースコールが鳴り止みません。その日もナースコール対応していたのですが、手を洗いながらふと鏡に映った自分の顔を見たら鬼みたいな顔の自分が映っていたんです。その顔を患者さんにも子供にも見せたくないと思って「もう看護師を辞めよう」と思いました。当時骨肉腫で入院していた中学生の女の子がいたのですが,彼女には「将来看護師になりたい」という夢がありました。亡くなる1週間前に「一度だけ白衣を着てみたい」と頼まれて、上司に内緒でこっそり着せてあげました。その時「いいなぁ、いいなぁ、縣さん看護師さんで。私も絶対に看護師さんになる!そして縣さんの部下になるんだー。」と言われてハッとしましたね。そこから先、本当にいろんな壁がありましたが、そのたびに「彼女と約束したからこんなことくらいで辞められない」と思いながら今があります。看護は誰にでもやれることじゃないんだよ、看護師になりたくてもなれない人もいるんだよというメッセージを彼女からもらったと思っています。
2つ目は2年目で泌尿器科病棟に勤務していた時のことです。企業のトップクラスの方で、同じ疾患で同じ手術を受けるという、社会的立場も疾患もほとんど同じ2人の患者さんがいました。2人ともウロストミーを造設後、順調に回復し退院となり、私はそれぞれに「退院おめでとうございます」と声をかけたところ、2人からまったく異なる言葉が返ってきたんです。
Aさん「何がめでたいんだ!俺はこんな化け物になったんだよ。もう前の自分じゃないんだよ」
Bさん「手術のおかげで新たな命をもらったよ。これが(ウロストミー)とても愛おしいよ。」
この2人の言葉を聞いて「患者さんそれぞれで捉え方はまったく違う」ということを教えて頂いた気がしています。看護師になって30数年たちますがそこはゆらぎませんね。こんなにも奥深い仕事って他にないと思いませんか?これはスタッフにも同じことが言えて、今管理という立場になっても活かしています。「がんばってね」「つらかったね」「よくできてるじゃない」と私が言った言葉にスタッフがどんな反応をするか、100人看護師がいたら100通りの反応があって当然なんです。これが私の看護観のひとつになっています。 「みんな一緒で,みんな違う」。つらいことがあれば「つらい」と感じるのはみんな同じ。でも「つらいからがんばろう」「つらいからやめよう」と受け取り方はみんな違う。それが当たり前の反応で「あの子ダメね」と自分のものさしでみてはいけないと思っています。
その出来事が縣さんを支えてきたのですね。
24時間全力で駆け抜けた管理職時代
その後も病棟での勤務を続けたのですか?
縣:10年目になって子供が小学生になったこともあり、憧れていた救命救急センターに異動を希望しました。今までの知識を役立てようと思ったらとんでもない。救命救急センターに在籍した10年間は「毎日が試験を間近にした受験生の気分」でした。一般病棟の知識がまったく通用しない世界。あれも知らなかったこれも知らなかった、あれも勉強しないといけない。到達したという実感がないという毎日でした。それでも必死に勉強して1年たった頃にはおもしろくなってきました。自己学習したことが「そういうことか!」と納得できる瞬間があって、そうなるとそこから急激に面白くなるし,成長もするんです。「1年乗り越えてみて。そしたら何かが見えてくるから」救命に配属する看護師には私の経験を伝えています。それをどう捉えるかはみんな違うでしょうけどね。
管理職へのきっかけはどのようなものだったのでしょうか?
縣:異動して半年で思いがけずに主任(今の師長の役割)になりました。救命の「現場」をやるつもりでいたので「なんで私が管理職になってしまったの?」と思いましたね。でも、なったからには自分のことだけで精一杯ではダメなんだと奮起しました。「スタッフを支えなくては!」という気持ちが大きくなり、そこからの10年間は24時間仕事の事しか頭になかったですね。「あの人今日は落ち込んだ顔して帰ったけど大丈夫かな」「今日あんなアドバイスしたけど,それがどう響いたかな。」と寝ても覚めてもスタッフのことを考えていました。当然「スタッフ>子供」というスタンスになってしまい、家庭生活の10年間の記憶が抜けているんですね。自分の子供の運動会や入学式に行ったことがないんですよ。何でも完璧にやらないといけないと思って、スタッフのことを親以上に全部把握しようとしていました。できもしないのにそう思って頑張ってしまって疲れる。そんな自分が本当に嫌だと思うのですが、任せられた役割だから,ちゃんとやろうと頑張り続ける日々でした。
スタッフにとっては頼れる主任さんだったでしょうね。
縣:その後、師長補佐になってからは、後任の新主任に「それくらい,なんでできないの?」と思うことが度々あってその思いをぶつけたことがありました。そしたら主任が落ち込んでしまって。これはダメだと反省しました。「みんな同じで,みんな違う」ということを思い出しましたね。私が良かれと思って言っている言葉でも本人にとっては落ち込む一言になることもある。ものすごくプレッシャーになったり、試されていると思ったりするわけです。言葉の大切さをまた改めて感じました。
完璧主義の私も40代後半でやっと「私,もっと肩の力抜いていいんじゃない?このままだと持たないよ」と思えるようになったのですが、それまではとにかく毎日全力でした。
プライベートを楽しんでこそ
「力を抜いていい」そう考えるきっかけとなったのはどんなことだったのでしょう?
縣:副看護部長になってから管理者全体を見る立場になり、客観的に1人1人が見えるようになりました。そしたら「この人いつも気負ってるな」「こんなに頑張りすぎなくていいのに」よく考えたら昔の私にそっくりな人たちがたくさんいたんです(笑)。
昔を振り返ってみると,その当時の上司は私より数倍仕事をしているのに料理などのいろいろな趣味をもって目一杯楽しむ生き方をしていたんですね。その姿は輝いていて,とても格好良く見えました。今の私をみて看護管理者を目指そうと思う人がいるだろうかと反省しました。大変な姿ばかり見せるのではなく,楽しそうに生きる姿も見せたいと思うようになりました。
思うだけではなくて実際にやらなければ変えられないので,週末に仕事を山のように持ち帰っていたのをやめました。持ち帰ってもやらないなら「休日は仕事を持ち帰らない。」と決めました。そしたら今まで土日は寝て過ごすだけだったのが、ウィンドウショッピング、映画鑑賞、旅行などを楽しめる自分になりました。スポーツクラブにも行くようになって。こんなに楽しい世界があったのか、これまでの数年間,私は何をやっていたのだろうとその時思いましたね。
<シンカナース副編集長インタビュー後記>
患者さんとの出会いがその後の看護師人生を変えることがありますが、縣さんの看護師としての価値観はまさに患者さんとの出会いによって作られたものだと感じました。人を相手にする仕事の醍醐味といえるでしょう。
また、仕事とプライベートのバランスを保つことは思いの外難しいものです。子育てと仕事の両立もしかり。そんな時、励みとなるのは上司や同僚の姿ではないでしょうか。「仕事だけでなく生きる姿も尊敬できる」そんな上司が職場にいたら自分のキャリア形成を考える上で非常に刺激となり、道は開けるかもしれません。
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・No.4 縣美恵子様(日本大学医学部附属板橋病院様)「開かれた看護部を目指して進んでいこうと思います」2/2
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