今回は東京共済病院の看護部長、若本恵子様にインタビューをさせて頂きました。
若本看護部長の手腕と魅力に迫ります。
患者さんを中心に、同じ方向をむいて
看護師になろうと思った理由について教えていただけますでしょうか。
若本:私は神奈川県の出身なのですが、高校生になって進路を考えていたとき、
新聞の広告に県立の看護学校の募集要項が入っていて、それを見て「ここに行ってみよう」と思って決めました。
思い描いていたイメージと異なっていたことはありましたか。
若本:やはり学んでいく中で、想像していたよりもずっとやりがいがあることがわかりましたし、
多くの人が憧れる職種であるなど、一つひとつが新しい驚きでした。
今は多くの教育機関もありますが、私が学生の頃は日本全体の経済の活気もあり、
あえて大変な仕事をする人は本当に望んで就く人が多かったのだと思います。
なんとなく決めた私は珍しいタイプだったようですが、やってみるとみんなの熱意にも影響されました。
学習した内容からも「多くのことを学ばないと役割が果たせない仕事だ」ということを実感しました。
自分次第で良くも悪くもなる
学生時代の実習で思い出に残っているようなことはございますか。
若本:血液科疾患の60歳代の女性の患者さんを受け持ちました。
ご主人ととても仲が良く、ゆったり老後を過ごそうと思っていた時に病気になられて、非常にご自身の衝撃も大きかったようでした。
当時は一般的に患者さん側から医師に質問することが難しい雰囲気で担当医はとても優しい先生でしたが、
直接質問せずに、学生の私に対して「これも気になっている」「あれも心配だ」と多くのことを話してくださいました。
その経験から看護師なら患者さんは本音を話しやすく、実務的な診療補助だけではなく、
理解や受け入れも助けることができることを学びました。
ただ、どんな看護師でも患者さんが本音で語ってくれるわけではないことは、まだ理解できていませんでしたが、その実習の印象が強く残っており、今でも当時の患者さんや医師、看護師の顔を覚えています。
患者さんが身近に感じられる存在
看護師だからこそ、患者さんに寄り添えるということでしょうか。
若本:おそらく仕事の持っている性質なのだと思います。
どんなに人柄がよくて、親切な医師でも、患者さんの中には「医師にここまで聞いてもいいのだろうか」と思う方も、まだ大勢いらっしゃるようで、看護師のほうが身近に感じられるのだと思います。
卒業後の経緯を教えてください。
若本:急性期の総合病院に就職し血液科と循環器センターという、内科と外科の混合病棟に配属され、
6年ほど勤務した中で、2年目の頃からはCCUのチームに異動になりました。
やはりその当時は大変だと言ったと思いますが、今振り返ると楽しかったです。
今はチーム医療が強調されていますが、その言葉を積極的に使っていなかった当時の方が、
医師も看護師もコメディカルも連携して「本当にチーム医療をしていたな」という実感があります。
より良い医療を提供するために、各自が何をするか
多職種の方々とコミュニケーションをとるうえで、大変だったことはありますか。
若本:結局は患者さんを中心に何をすべきか、それを「それぞれ持っている資格の中で何をするか」ですので、あんまり大変だったという記憶はありません。
患者さんを中心に話し合えば、思いきりお互いに言いたい事を言って、熱くディスカッションできます。
個人的な感情ではなく、「より良い医療を提供するために各自が何をするか」「患者さんのゴールをどこに設定するか」が軸になっていました。
関係性が今よりももっと密接だったかもしれません。
当時はパソコンも携帯電話もありませんし、医師に連絡するのはポケットベルの時代でした。
そのため、会った時に何を話すかが非常に大事ですし、記録もその場所に来ないと書いたり、確認したりできませんでした。
当時は、当たり前のことでしたが、深く交流しないと、お互い考えていることが分かりにくいこともあったのだと思います。
そちらに6年間いらしたあとは、また別の科に行かれたのですか。
若本:そのあとCCUにいる間に結婚して、子どもを授かったので産休を取りました。
育児休業のあと、子どもが8カ月ぐらいの頃に復職したときには、産前に勤めていた病院の分院があり、
そちらの神経内科や腎センター、肝臓科など内科系の混合病棟に8年ほど勤めました。
子育てしながらだと、いろいろ大変なこともあったのではないですか。
若本:2人子供ができて、子育てしながら勤めていて、
当時はきっと大変だったと思うのですが、今思うとなんとかやっていたのだと思います。
当時夜勤もしていましたが、復職した翌年に主任になってからは、当直時間帯の看護部長代理を交代でする形で、スタッフ時代に比べると夜勤の頻度は減りました。
もう1回勉強しようと思い、オーストラリアへ
そちらに8年ぐらいいらして、そのあとはまた本院に戻られたのですか?
若本:現場で10年を超えて勤めていると、もう1回勉強してみようかなと思うようになり、一旦退職して、オーストラリアの大学に編入しました。
当時は日本の看護師資格を持っていると、海外の大学で看護学部の学士過程に編入できるコースがありました。
海外の看護を見てみたいという気持ちもあり、子供2人を連れて、オーストラリアに1年間留学し、卒業して戻ってきて、本院に再就職しました。
1年間は呼吸器内科と呼吸器外科、それから消化器外科の、外科系が中心の混合病棟でまた主任として仕事をしました。
日本との違いは感じましたか。
若本:オーストラリアの病院にも何回か見学に行きました。
実務は詳しくみられませんでしたが、看護の分野に限らず、全体的に大学の雰囲気が、日本の教育と全く違うと思いました。
子供が地元の小学校と幼稚園に入り、教育体制や考え方の違いをとても感じました。
日本では暗記した正しい答えを書けばいいのですが、向こうでは自分の意見が重要視されます。
そのため、「教わったことに対して自分はこういう考えを持っている」と書かないと減点されることにとても驚きました。
枠にはめると見えなくなってしまうものもある
オーストラリアから帰ってきて、ご自身の中で変わったことはありますか。
若本:卒業してから一つの職場しか知らず、そこが全てだと思っていましたが、留学して多くの人と出逢い、様々な考え方に触れ、価値観の多様性を実感しました。
留学生には、看護職以外の、一般企業から仕事を辞めて留学している人もいれば、
高校卒業後の歳の離れた人が多く、国籍も南米や、英語圏ではないヨーロッパから来ている方とも知り合いました。
留学中の経験を通して、仕事の中で、「こうに違いない」などと幅を決め、制限を作り、枠にはめてしまうと、見えなくなるものが多く存在すると思うようになりました。
後編へ続く