No.120 露木 道子様(湘南東部総合病院)前編:患者さんに教えられて質の良い看護に繋がった

インタビュー

今回は湘南東部総合病院看護部長、露木 道子様にインタビューさせていだきました。

露木看護部長の手腕に迫ります。

子供の頃の使命感が看護師を志すきっかけに

 

なぜ看護師を目指しましたか。

露木:私が生まれたのは、冬は3〜4mも雪が積もる本当に雪深い新潟県の十日町でした。

祖父が村の診療所で世話役をしており、幼い時から一緒に出入りして、そこの医師や看護師によく遊んでもらっていました。

小学校に上がる頃、その診療所が閉められ、通院していた方々が困っている様子を見て、子ども心に気にしていました。使命感なのか、そう思ったことが看護師を目指すきっかけとなったと思っています。

その幼少期のきっかけから、ずっと看護師になりたかったですか。

露木:ぼんやりでしたが「その頃から、ずっと看護師になる」と思っていました。

高校を卒業した後、働きながら准看護学校を卒業し、アルバイトでお金を貯めて進学しましたが、大変とは思わずにとても楽しくやっていました。

学生時代の仲間とLINE

 

学生時代の仲間とは今でも連絡を取り合っていますか。

露木:慈恵医大付属の看護専門学校に進学し、全国から集まった仲間と2年間寮生活も経験しました。卒業後は、みんなそれぞれの進路に進んでいきました。病院勤務者、学校や市役所、施設や訪問看護など様々ですが、みんな元気いっぱいで現役です。生活を共にした仲間が多く、同期会をきっかけに連絡を取り合い、今ではLINEで繋がっています。今は、還暦を迎えた話で盛り上がっています。今だからLINEで繋がっていられるのかもしれませんが、ある意味、すごいことだと思います。

生活丸ごと支える看護

 

学生時代から今まで、印象に残っている患者さんとの関わりを教えてください。

露木:大分前の事です。社交ダンスが趣味の患者さんが大腸がんの手術により、人工肛門をつくらなくてはならない状況が発生した時、患者さんのダンス衣装を持参していただき、医師や手術室看護、病棟看護チームと協力してストマの位置決めを行いました。退院後にダンス大会の写真を送ってもらったときはみんなで感動したことを今でも覚えています。その頃、患者さんとの関わりがとても濃密で毎日が本当に短く、あっという間に過ぎ去っていくように感じていました。手術をした患者さんに、自宅に帰った後も困らないように、当時は自分たちのできる範囲で生活丸ごと支えられるよう精一杯やっていました。

声が出なくてもコミュニケーションは取れる

現在お勤めの病院でのエピソードを教えてください。

露木:特殊疾患病棟入院中の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の60歳代女性Aさんが、一番印象に残っています。

全身が麻痺して、ほとんど筋肉を動かせない状態です。眼球と指先が1㎝くらいと足先が少しだけ1,2cm動きますが、その他は自分で動かすことが難しい方でした。そのため50音が書いてある透明のボードを使用して会話をします。目の動きで「ここだよ」と字を重ねての会話を当たり前のようにやっているスタッフをみた時、とても驚き感動しました。そこのスタッフ達はボードだけで当たり前のように会話をしていたのです。それだけのコミュニケーションがとれる技術はなかなか普通ではありません。

意思伝達装置「伝の心(でんのしん)」をご存知ですか。パソコンと画面を繋いでその画面を指先でなぞって文字を言葉にするのです。文字にした言葉を音声変換する事もできました。Aさんの息子、リハビリスタッフ、看護・介護スタッフも全員一緒になって取り組み、練習をしました。

受け入れられないスタッフもいましたが、泣きながらAさんと向き合った者もいました。その場面はずっと忘れられません。

Aさんを通して多くの経験をさせていただき、コミュニケーションや個別ケアのあり方を学ばせていただきました。

後編へ続く

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