No.85 樋浦 裕里様(東京さくら病院)前編「楽しいと思える仕事に」

インタビュー

今回は東京さくら病院の樋浦 裕里看護部長にインタビューさせて頂きました。

部長として看護部をまとめていらっしゃる、樋浦看護部長の手腕に迫ります。

自分が楽しいと思える仕事に就きたい

看護師を選ばれたきっかけを教えていただけますか。

樋浦:実家が牛乳販売店をしていた関係で、小さい頃からお店の手伝いをしておりまして、地域の方々と密接に関わる楽しさを感じながら育ちました。

また、ご高齢の方と接する中で、そうした方々に何かをして差し上げる仕事に将来つきたいとも次第に思い始めていました。

人と関わることが好きでしたし、自分のやりたいと思える仕事だったことが看護師の道に選ぶきっかけになったと思います。

個別性を生かす事ができた精神科実習

学生時代で印象に残っていることがあったらお聞かせください。

樋浦:学校はしっかりと学べることと将来就職した時にも色々な経験が出来ることを考えて、大学病院に附属している看護学校を選びました。

一番記憶に残っているのは、3年生の精神科実習でけ持たせていただいた統合失調症の患者さんです。

というのも、それまでの実習ではあまり理解の進まなかった患者さんの個別性という部分に注目した関わりが出来たのです。

受け持った患者さんは、幻聴幻覚、またそれに伴う恐怖感により生活が困難になった方でした。

その患者さんに私がオーケストラでホルンを担当しているという話をしたところ、その方もブラスバンドで同じホルンをしていたということがわかったのです。

その話をした後からは、それまでは見られなかった笑顔が見られるようになり、恐怖感に苛まれない楽しい時間が増えていったように思います。

実習中に患者さんと二人で病院の目の前にあった神社に行って楽器を演奏したり、咲いている花について話をしたりすることも出来る様になりました。

その実習を通して、個別性を重視した関わり方を学びましたし、私の病気に対する考え方も変化しました。

それまでは病気は「治すもの」という認識でしたが、「ともに生活していくもの」でもあるということを知ることができたのです。

その学びは学会で発表もさせていただきました。

充実した実習だったのですね。

樋浦:そうして発表する機会を与えて頂いたお陰で、実習をもう一度振り返り文章化して理論的にまとめることも体験できました。

また、その作業を通して看護の面白さ、考えや体験を理論的に文章にして他の人に伝える楽しさがわかるようになりました。

発達段階に応じた関りに興味をもち小児科へ

最初に就職されたのはどちらの病院だったのでしょうか。

樋浦:日本医科大学の第一病院の小児科病棟を希望して就職しました。

どうして、小児科病棟を希望されたのでしょうか。

樋浦:学生時代に良い実習体験をしたのが先ほどお話した精神科で、その患者さんが小児科の対象年齢に入るような方だったことも影響していると思います。

あとは学生時代の3年間、一型糖尿病のDMキャンプにボランティアとして関わらせて頂いていましたので、その中で小児期にある患児が自分の疾患を受け入れて、ともに生活していくための支援に興味を持ったという事も大きな理由の1つです。

DMキャンプとはどのようなものですか。

樋浦:そのキャンプには、一型糖尿病を患っていてインスリンを打たないと生活が出来ないようなお子さん達が親御さんから離れて参加していました。

普段ならば血糖値が下がってしまうので彼らはあまり運動できないのですが、そのキャンプでは「倒れても良いから動いて良いよ」という環境を作り、どのくらい動いたら自分が倒れるのかを自身の体験から知って貰うのです。

勿論親御さんが居ませんから、まだ数字がわからないような年齢のお子さんもインスリンの注射を自分で打たなくてはなりません。

そうすると、その頃はインスリンと注射器が一体化したものはまだありませんでしたので、まずインスリンをアンプルから注射器に移す一連の作業も身につけないといけなくなります。

そうしたことを、どのように幼稚園児に教えるのかを考え、インスリン注射が出来るようになるまでの一つ一つのステップを一緒に踏んでいく事がとても楽しかったのです。

精神的なサポートをする難しさと大切さ

看護師一年目の勤務はいかがでしたか。

樋浦:配属された小児科は、糖尿病と白血病がメインの病棟でして、そこで看護師として大切なことを学ばせて頂きました。

白血病は医療的処置が多く、しなければならない看護ケアも沢山あります。

一年目の私は、時間毎の点滴の交換や、観なければならないポイントを漏らさない様にすることに精一杯でした。

でもある時、患者さんの「もうちょっと私の隣にいて」という声を耳にしました。

その言葉がとても私の心に響いたのを今でも覚えています。

医療行為ができることは看護師として大事なことですが、精神的なサポートも同時に求められているという事を痛感しました。

それからは「次に呼んでいる子がいるから、もう少し経ってからまた来るからね」と伝えたり、声掛けや関わりを少しずつ変えて行きました。

患者さんからも「待っているね」という言葉を貰う事が出来る様になり、患児さんと心のこもった交流ができるようになり、とても嬉しかったです。

小児科では何年ぐらいご経験されたのでしょうか。

樋浦:小児科には3年いましたが、大学院に入りたいという思いがあったので、明治大学の夜間学部に3年目から通い始めました。

どこにいても学び続ける

明治大学ではどのようなことを学ばれたのでしょうか。

樋浦:文学部の史学地理学科に入学しまして、現在の日本の看護、精神科ケア等がいかに適切であるかを江戸時代の古文書から読み解くという事をしました。

同じ大学に通われている方は医療関係者だけではありませんでしたので、その同窓生からも学ぶことが多くありました。

やはり違う環境で学ぶことで見えてくることも多くありました。

大学卒業後は仕事復帰をされたのでしょうか。

樋浦:実は大学を卒業した後に仕事も再開したのですが、働きながら都立の保健福祉大学(現在の首都大学東京)の大学院の修士課程に進み、嚥下についての研究をしていました。

仕事に関して言えば、子供が小さい頃は検診の派遣などで働き、市川市のリハビリテーション病院が開設された時に病棟に復帰しました。

そのころはまだリハビリテーション自体が定着していない時代でしたから、働きながらリハビリテーションとは何なのかも探っていった様に思います。

その後はどのように看護師としてキャリアを積んで来られたのでしょうか。

樋浦:系列病院が新設されるということで、その事業に関わらせて頂いた後、東京湾岸リハビリテーション病院で2年ほど病棟主任を勤めさせて頂きました。

その後は、以前に働いていた市川リハビリテーション病院に師長として戻りました。

病院の新設を2回もご経験されていらっしゃるのですね。

樋浦:二つの病院の開設に関わらせていただけたことは、非常に良い勉強になりました。

後編へ続く

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