No.106 髙橋祐子様(小さき花の園)前編:「看護を担う」という決意

インタビュー

今回は小さき花の園の看護部長、認定看護管理者でもいらっしゃる髙橋祐子様にインタビューをさせて頂きました。

髙橋看護部長の手腕と魅力に迫ります。

担任の先生の言葉がきっかけで看護の道へ

看護師を目指されたきっかけを教えていただけますか。

髙橋:私は子供の頃、体が弱い方でした。

また母は心臓疾患を持っていたので、小さい頃から病院とは縁がありました。

しかし、その当時から看護師という職業を特に意識していたわけではありません。

あまり勉強が好きではなかったので、高校卒業後は就職をするつもりでした。

担任の先生に「この会社の内定をもらいました」と報告へ行くと「その職業もいいけれど、他の選択肢もありますよ。保健師はどうですか。」と看護専門学校に進学することを勧められました。

先生の妹が保健師をされていたので、私にも保健師を勧めてくださったのだと思います。

もともと看護師を見る機会が多かったので、その話を聞いてから看護師という職業を意識するようになりました。

当時は看護科のある大学はそれほど多くありませんでした。

以前から看護師になりたいという目標があったわけではないので、できるだけ親に経済的な負担をかけずに免許を取得できる学校に進学しようと思っていました。

看護の素晴らしさを学んだ学生時代

地元の熊本県の看護専門学校へ進学されたのですか。

髙橋:就職は熊本でするつもりでした。

しかし、進学をするのであれば、「熊本県の外に出るチャンスかもしれない」と思い県外の看護専門学校を探しました。

そして神奈川県立の看護専門学校へ進学しました。

当時は全寮制の学校です。

学生時代の思い出はありますか。

髙橋:学校の先生はとても熱意のある方々でした。

入学した時はまだあまり看護師という職業を意識できていなかったのですが、1年生の早い時期から、この職業を選んで本当によかったと感じさせてくれました。

どのような授業だったのですか。

髙橋:毎回、自分たちの体験や患者さんとの関わりの話を通して「看護師は素晴らしい」ということを私達に伝えてくれました。

そして「これからの看護を担っていくのはあなた達ですよ。」といつも言われていたので、学校を卒業する頃には、看護師として「自分たちがこれからの看護を担う」という意識が自然と身についていきました。

ユニフォームを着ると看護師

もともと人と関わることがお好きだったのですか。

髙橋:いいえ、私は人見知りが激しい性格です。

看護学生の時の基礎実習では、「こんにちは」と挨拶はできるのですが、そのあとに何を話せばいいのか分からなくて、なかなか患者さんの部屋に入っていけなかったという経験があります。

どのようにして克服されたのですか。

髙橋:看護師のユニフォームを着ると「私は看護師として振舞わなければならない」「私から働きかけるべきなのだ」と気持ちの切り替えができたのだと思います。

今でもユニフォームを脱ぐとおとなしい私になってしまいます。

卒業されたあとはどちらの病院に就職されたのですか。

髙橋:私が進学した学校には付属の病院がありませんでした。

最初の3年間はとにかく看護の基礎をしっかり学ぼうと思い、神奈川県立病院に就職しました。

どちらの病棟に配属されたのですか。

髙橋:外科と脳外科の混合病棟でした。

手術を受ける患者さんや、呼吸器のついた患者さんもいらっしゃいましたが、とても大変だと感じたことはあまりなく、のんびりした雰囲気の中で楽しく仕事ができました。

看護師の職業が合っていらっしゃるのですね。

髙橋:そうだと思います。

看護師を勧めてくださった担任の先生には感謝しています。

そちらの病院ではどのくらい勤務されたのですか。

髙橋:入職した時は、3年経ったら高度医療を学ぶために大学病院に転職し、力が付いたら日本国内を転々としようと思っていました。

しかし、3年目を過ぎた頃に結婚し、子育てをしながら仕事を続けていたので、結局は約9年間勤務しました。

変化を求めて学校へ

何か次のステップに進むターニングポイントになった出来事があったのでしょうか。

髙橋:3人子供がいるのですが、2人目の産休が明けて仕事に復帰した時に研修を受けました。

後輩指導のような内容だったと思います。

苦手な人をターゲットにして、どのように関わっていくのが良いのか、プロセスレコードを書き起こすような研修でした。

その時に何か立ち止まっていなかった自分に気が付いたのです。

一生懸命にその日の仕事は責任を持ってやっているけれど、先を見ながら仕事をしてないなと思ったのです。

私は何をしたかったのだろうと考えた時、学生の頃の先生たちの事を思い出しました。

当時は教員免許のない方でも臨床経験があれば先生として学校に来ておられました。

その方たちが1年くらいすると、教員の免許を取るため学校へ行き、また私達の学校へ戻ってこられていたのですが、学校に行く前と行った後では、先生の変化が明らかだったのです。

不安そうに授業をしていた先生が、とても自信をもって授業をされている姿を見て、なぜこんなに大きな変化があったのだろうと思いました。

学生にも分かるくらい大きな変化が得られる学校があるのなら、私もいつかその学校に行ってみたい、とその時に感じたことを思い出したのです。

当時は子どもが2人いたのですが、家族の協力を得て教員と実習指導の養成コースに1年間神奈川県からの派遣学生として行かせてもらいました。

病院では実習指導もしていたのですが、根拠がはっきりとしないような、自分が知っていることをただやっているように感じていました。

きちんと勉強をして、そこに答えられるようになりたかったのです。

実際に学校に行ってみると、私が想像していた以上に知らないことがたくさんありました。

これは1年間では間に合わないと思いました。

しかし、こんなにあるのだから「ひとつひとつやっていけばいい」「焦らなくてもいいのだ」と逆に落ち着いて勉強することができました。

学校を卒業されたあとは病院に戻られたのですか。

髙橋:学校を卒業した後はどこに転勤になるか分かりませんでしたが、運良く元の病院に帰って来られました。

実習指導者としてもう一回やってみたいと思っていたのですが、職員を教育する看護教育科というポジションへ配属されました。

そこでは看護職員教育に関する仕事をしていました。

看護教育科でのお仕事は、どのくらいされていたのですか。

髙橋:5年間看護教育科で仕事をさせてもらいました。

その後は看護専門学校に転勤になりましたが、約3年後、もう一度病棟勤務に戻してもらいました。

約10年ぶりの臨床だったので、とても嬉しかったです。

2人夜勤ではなく3人夜勤の部署を希望したところ、救急と脳外科の病棟になりました。

その救急病棟で約2年間働き、看護師長になりました。

師長さん、副看護局長さん、看護局長さんと役職が変化していくことに抵抗などはありましたか。

髙橋:看護師長に就いた時は、看護教育科で身近に師長の仕事を見てきた経験があったので戸惑いはありませんでした。

看護師長の仕事は、臨床の看護に事務的な仕事が加わってきますが、それも抵抗はありませんでした。

救急病棟の看護師長が長期にお休みされていた時期があったのですが、その間は私が師長代理として看護師長会に出たり、師長の役割を引き受けたりしていたので、そのお陰で看護師長の仕事にすぐ慣れることができました。

後編へ続く

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