No.86 沖原由美子様(聖隷淡路病院)前編:「ホスピスで働きたい」

インタビュー

今回は聖隷淡路病院の沖原 由美子総看護部長にインタビューさせていただきました。

認定看護管理者でもあり、現在は淡路島の住民のために地域密着型の病院で活躍されている沖原総看護部長の手腕に迫ります。

きっかけは素晴らしい学生との出会い

看護師を目指されたきっかけを教えていただけますか。

沖原:看護師を目指したのは、私が小学校2年生の時に、「鼠経ヘルニア」で聖隷三方原病院に入院した時に出会った実習生がきっかけです。

手術後の痛みで、アヒルのような恰好をしてトコトコ歩く私を見て看護師達は「アヒルちゃん」と呼んでいました。

しかしその実習生だけは、私のことを名前で呼んでくれました。

私は小学校2年生でしたのにきちんと対等に扱ってくれたことを印象深く覚えています。

とても素晴らしい人でした。

その後ナイチンゲールの伝記を読み、こういう存在感のある仕事をしてみたいと思いました。

実はその後も薬剤師、獣医、サーカスの空中ブランコ乗りなど色々な職業を考えましたが、

高校の先生に「いつ旦那が交通事故で死んでも、食べていける、一生やれる仕事に就きなさい」と言われたのがきっかけで看護師に気持ちが戻ったのです。

ホスピスに入りたい

そして専門学校に入られたのでしょうか。

沖原:学校は千葉県にある三育学院カレッジに通いまして、卒業時に浜松にホスピスが作られるという話を聞いたため、「ホスピスに入れてください」と事務所にお願いをしに行きました。

「新人のうちから入るなんて大変よ」と言われましたが、ホスピスへの気持ちは全く薄れませんでしたので、ホスピスの立ち上げと同時に新人として入りました。

ホスピスですとやること、学ぶことが沢山あったのではないでしょうか。

沖原:そうですね。

患者さん方は、百戦錬磨です。

化学療法を受け、手術も受け、一通りの過程を通ってきて、そして「自分はもう積極的な治療はしない」というところを決めてきた方たちです。

一方私は、注射一本痛くないように打つ技術も持たない新人でしたので、患者さんに言われたことを素直にする、ということが責務でした。

充実した新人時代でしたか。

沖原: 日々患者さんが亡くなりますので辛いことはありました。

ですが2年目くらいから担当看護師になれるようになりましたので、患者さんとも関わり、看護計画を立てて皆にアピールすることなどを通して、また違う視点で患者さんのことを見つめることができるようになりました。

あとは色々な先生達と話すことによって世界を広げていくことができました。

その頃のホスピスの特徴はありましたか。

沖原:十数年前ですと、最初のホスピスができた頃です。

決まり事がありませんから、自分たちで創造して考えることが必要でした。

全国各地からホスピスで働きたいという考えを持つ看護師が集まってきていたので、様々な医療に携わっていた人から体験記を聞くことができたことはとても印象深かったです。

その一方、「積極的な治療をしないのは敗北だ」と考える医師も多くいましたので、院内の人たちになかなか理解してもらえないこともありました。

ホスピスを受け入れる運動をしっかりやってくれていたのはどちらかと言うと病院の外にいる人たちした。

例えば葬祭業の方が、「ホスピスで過ごされた方はすごく穏やかな顔をしています」などと口コミで広めてくれていました。

ホスピスには何年ほどいらっしゃったのですか。

沖原:10年程でしょうか。

途中で看護協会の学校に行ったり、精神科病棟に手伝いに行ったりしたこともありましたが、ホスピスへの気持ちは薄れませんでした。

管理職の道へ

管理職にはいつ頃なられたのでしょうか。

沖原:31、2歳の頃に上の方から「師長にならないか」とお声をかけて頂きました。

26歳くらいの時に看護協会で1年間、現在のファーストレベルに相当する管理の勉強をしていたのですが、実際になった時には少し大変だったのを覚えています。

管理職になられてから一番楽しかったのはどういったことでしょうか。

沖原:一番楽しかったのは、看護師長の下の係長を務めていた時です。

係長は患者さんの受け持ちもしますし、病棟全体の質なども考えますので、一番物事の結果が見えやすいところだったからだと思います。

師長になられて取り組まれたことはございますか。

沖原:師長になってからは、看護師たちが「こうしなきゃならない」「こういうルールでやらないとダメだ」というような束縛を受けている集団に見えていたので、もっと自由に発想して動いて貰えるように取り組みました。

「みんな自由に自分の看護をしていいよ」と、伝えていたのですが「自由」という言葉の捉え方が人によって違うことに気づきました。

そこで、最初に「自由」を定義して、組織のルールや決まりを作る必要性があったこと、また、組織を整えるとはどういう事かを学びました。

実体験でしか分からないことがたくさんあるのですね。

その後はどういったご経験を積まれたのでしょうか。

沖原:それからは3,4年師長を務め、その後に看護次長になりました。

認定看護師を目指すコースもありましたが、私は管理の仕事に進み、「看護師長を育てる」という仕事に取り組み始めました。

相手にするのが看護師になりますが、違った点はございましたか。

沖原:自分では「こうすればいい」と思うようなことでも、人を介してやらなければいけなくなりますので、大変さやもどかしさは感じました。

39歳で看護部長

初めて部長になられたのは聖隷淡路病院ですか。

沖原:そうです。

聖隷淡路病院ができた時に、部長としてこちらに来ました。

当初この病院は国立でしたから、その残ったスタッフと聖隷から連れてきたスタッフをドッキングして、チームを作りました。

育ちも文化も違う人たちが、一緒になってやっていくことになりましたのでまずは信用してもらうことに尽力しました。

今年で開設後18年になります。

ゼロからのチーム作りのコツなどはございますか。

沖原:できるだけ信用してもらい、少しずつ丁寧にやることです。

現場の困りごとが色々とあるので、そういうことを聞いて、それを一個ずつ解決していき人間関係を作りました。

「これやりなさいよ」という指示命令型では絶対無理だと思います。

言葉さえも関西と中部地区では違いますので、私の浜松の口調が強く聞こえることもあります。

また、反対に私はこちらの言葉は全く分からないこともあります。

それは患者さんが対象でも同じです。

患者さんが何を言っているのか、何に怒っているのか、どのくらい怒っているのかなど、私も色々教えて貰いながら来ました。

スタッフ同士だけではなく患者さんとの関係も文化が違うと難しくなるのですね。

沖原:「文化」はとても大切なキーワードです。

淡路島の中でも北の方と真ん中の洲本市と南淡路では、少しずつ文化や考え方、お金の使い方などが違います。

そうしたことを加味しながら、仕事することを心がけています。

元々看護部長になりたいと思っていらっしゃったのですか。

沖原:係長くらいの時から、「いつか看護部長になるぞ」という目標が自分の中にありました。

私の病院が、地域の人々が自分たちで正しい医療を受けに行けるような病院、「この病院があるから安心して仕事にも精を出せる」と言って貰えたらいいなと思っていました。

そして、そこのトップをやってみたかったのです。

素敵ですね。

沖原:ホスピスにいた時に「あなたが、早く看護部長になってね」「夜、安心して眠れるような、患者さんとか家族とかが安心して眠れるような看護師をたくさん育ててよ」と患者さんのご家族に言われたことも影響していると思います。

後編に続く

聖隷淡路病院に関する記事はコチラから

No.86 沖原由美子様(聖隷淡路病院)後編:「ほんな、聖隷行こか」

病院概要

聖隷淡路病院