No.73 長田 幸枝様(東京小児療育病院)前編「障害児のために何かしたいという熱い思い」

インタビュー

今回は東京小児療育病院の長田 幸枝看護・生活支援部長にインタビューさせて頂きました。

2つの組織をまとめる長田看護・生活支援部長の手腕に迫ります。

人の役に立つ仕事をしたい

看護師になられたきっかけを教えていただけますか。

長田:私は子どもの頃から、将来人の役に立つ仕事に就きたいと思っていました。

人に関わり、人のお世話をする仕事にすごく興味があったのです。

それで、中学生の頃は、保育士になることを目指していましたが、叔母が看護師をしていた影響もあり、高校進学の際に衛生看護科を選択しました。

高校の衛生看護科というのは、どのような進学コースでしょうか。

長田:衛生看護科は高校の専門科の一つで、よく耳にする「商業科」などと同じ職業科のコースのことです。

衛生看護科では、高校の3年間、一般科目と看護のカリキュラムを学び、卒業時に地方試験を受けて合格すると、准看護師の免許が取得できます。

また、大学病院で看護実習をしたのですが、命の重さと共に、命を守る怖さ・難しさを知り、挫折を味わいました。

挫折を経験され、その後はどのようなお仕事に就かれたのでしょうか。

長田:実は、看護実習での挫折をきっかけに看護師として働くことを一旦断念しました。

それで1年間、品川にあるホテルの中の免税店で販売の仕事をしていたのです。

ちょうどオイルダラーの時代でイランなど中東のお金持ちの外国人やエアラインのキャプテンやパーサー達を相手にカメラのフィルムなどを販売するのが私の担当でした。

全く分野の違うお仕事に就かれていたのですね。いつ看護のお仕事に戻られたのですか。

長田:やっぱり看護師の仕事があきらめきれず、結局1年後に准看護師として現場に戻りました。

当院で働き始めてから27年になりますが、その間に准看護師として働きながら看護師の資格を取得し、感染防御の認定看護師も取得しました。

現在は、管理職をさせていただいています。

働きながらの資格取得

働きながら正看護師の資格を取るのは、大変ではなかったでしょうか。

長田:病院のバックアップもあり、通信制の看護師養成課程を受けることができました。

通信制の看護師養成課程は九州で始まり、のちに東京にも開校しました。

私は東京の第一校目の第一期生です。

年を取ってから勉強でしたので、やはり「若いうちにやっとけばよかった」という反省は大いにありましたね。

しかし、看護師免許取得の勉強を機に学ぶ習慣が身に付きましたので、それからは毎日が勉強だと思って励んでいます。

実は、今も通信制の大学で学び続けているのですよ。

とても積極的ですね。

どのようにモチベーションを維持されているのでしょうか。

長田:やはり、「利用者さんのために何かできることをしたい」「笑って過ごしていただきたい」という思いが支えになっていると思います。

年を取るにつれて勉強は大変ですし、現場も手を抜かずに両立しなければいけませんから、人のために何かしたいという気持ちを忘れず大切にしています。

素晴らしい原動力ですね。

現在の病院でのご活躍をぜひお聞かせください。

長田:入職後から現在に至るまで、病院内で何度か異動をしています。

一番長く担当した部署は通所サービスで、15年間勤務しました。

その後、病棟師長、感染対策と安全管理の担当科長、訪問看護の科長などを経て、今年の4月から看護・生活支援部長をしています。

看護・生活支援部長としての熱い思い

看護部長になってからとそれ以前とでは、仕事の意識にどのような違いがありますか。

長田:科長として管理職を経験していますが、それとはまた違い、部長になって病院全体を見るという意識が強まりました。

病院全体の経済や組織のこと、中長期計画など常に考えながら動いていかなくてはいけないので、私見で動けなくなりました。

熱い思いがこみ上げることもありますが、自分の思いと勢いだけで動いてはいけないというところで自分を抑えることも学びました。

看護に対する熱い思いが伝わりますね。

ところで長田部長は、そもそもどのようなきっかけでこの病院を選ばれたのでしょうか。

長田:実は、はじめ「東京小児」という病院名を見て、小児科の病院だと勘違いしていました。

以前、小児科に勤務していたこともあり、小児科に戻るつもりで当院を訪ねたのです。

ところが実際、病院見学に来て障害児の病院だと知り、すごいショックを受けました。

初めて見た光景は、バランスボールにうつ伏せに乗っている小さな障害児でした。見た時には、涙が出て止まらなくなりました。

その子は、バランスボールの上にペタンと乗って微動だにしないのですが、開かれたちっちゃな真っ白い手から「生きようとする力」「頑張ろうとする力」が伝わってくるのです。

当時の総婦長さんに「泣いている場合じゃないよ。これがね、この子の生活なの」「この子の生きている場なの」と言われたのを覚えています。

「人のために何かしたい」その気持ちがよみがえりました。こうしたことがきっかけで入職を決意しました。

入職後に経験した忘れ難いエピソードをひとつ教えていただけますか。

長田:生きるために、非常につらい選択をしなければならない子どもと親について知った時のことをお話ししましょう。

障害児の中には、食べ物を呑み込む機能が上手く働かない子がいます。

普通は食道に入った食べ物を呑み込むときに、気道の入口の蓋が閉まって誤嚥を防いでくれるのですが、この機能が働かないと誤嚥性の肺炎を起こして命に関わる危険性があります。

これを防ぐには、気道の入り口の蓋を閉め、その代わりに喉の外側から気道に穴をあけて、呼吸ができるようにしてあげる必要があります。

しかし、気道に穴をあけると声帯が振るえなくなるために声は出せなくなります。

障害児の親が「子どもの命を守るために声を諦める選択をしなければならない」「声を奪ってしまったこと、一生それを背負って生きていかなければならない」ということを知った時に非常に胸が痛くなりました。

親として子どもの声を捨てる選択をするのは、どんなにかつらいことでしょう。

看護部長として今後目標にされていることをお聞かせください。

長田:院内の安定はもちろんですが、在宅支援にも注目していきたいと思っています。

国としても在宅支援に力を入れていますが、実際、障害児の在宅支援はなかなか難しいのが現状です。

ですから、今後はやはり「病院としてどんな在宅支援をしていくか」というところを見つめ直していく必要があると考えています。

後編に続く

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