No. 54 佐藤康子様(松本協立病院) 前編「自分の力が生かせる所ならばどこでも頑張るべき」

インタビュー

今回は松本協立病院の佐藤康子看護部長にインタビューさせて頂きました。

佐藤看護部長の手腕に迫ります。

辛くもありがたい実習体験

看護師を目指そうと思われたきっかけを教えていただけますか。

佐藤:実は姉妹が生後すぐ亡くなった関係で、私がお腹にいることがわかった時から、母が信州大学の産婦人科にお世話になっていました。

私も生まれてすぐ黄疸が強く出て、生死の境をさまよったそうです。

そのあとも小学校に上がるまではすごく病弱でしたから、病院というものがすごく身近にあって、医師や看護師にとてもお世話になってきました。

そうした色々なことがあり、母は私に、私の命を救ってくれた検査をする検査技師になって欲しかったようです。

ですが、わたしは物よりも人を相手にする仕事をしたいと感じ、看護師を選びました。

学校はどのように選ばれたのでしょうか。

佐藤:実家の近くか県外か、大学に行くことも検討いたしましたが、最終的には自分の生まれた信州大学の医療短期大学に通うことにしました。

学生時代で印象に残るようなエピソードはございますか。

佐藤:実習で受け持った2名の方の事が印象に残っています。

一人は、3年時に外科病棟の実習で受け持った食道がんの患者さんです。

実習生だったのですがその方の10時間に及ぶ手術にも、術後のICUにも入らせて頂きました。

とても大きな手術でしたし、その後のフォローもさせて頂けたのですごく勉強になりました。

内科病棟では肺線維症の末期の方を受け持たせて頂きましたが、実習中に亡くなられました。

ですが、ご厚意もあり、解剖に立ち会わせて頂くことになりました。

学生はあまり経験できない事を経験することができて、当時は辛かったですがありがたかったです。

その御二人のことは忘れられません。

自分の力が生かせる所ならばどこでも頑張るべき

最初の病院はどのように決められたのでしょうか。

佐藤:信州大学医学部附属病院でも色々な患者さんをみせて頂きましたが、あまり市中で見るような患者さんをみる機会がありませんでした。

卒業後は一度地元にも戻ろうと思っていましたし、もう少し地域に近い患者さんを見たいという気持ちがありましたので、卒業後は地元の病院に就職しました。

最初は何科に配属されたのでしょうか。

佐藤:消化器内科に2年弱勤めました。

実際に看護師になってみて、イメージとのギャップで戸惑うことなどはございませんでしたか。

佐藤:看護管理に携わる中で事務的な作業が増えてきたことで、最近はこういった仕事も自分に向いているように感じ始めました。

ですが、それまでは疑問に思ったこともなく看護師を続けてきました。

いつ頃松本にいらっしゃったのですか。

佐藤:最初の病棟に2年勤め、その後1年混合病棟で働いた後です。

結婚を機に松本に転居してこちらの病院に就職しました。

こちらの病院に移られてからは、どちらの科をご経験されましたか。

佐藤:最初は神経内科とリハビリの病棟へ配属されました。

就職して2年、3年した頃に異動の話があり、循環器系の病棟に移りました。

お話を頂いたのは異動の3週間前で、異動先も決まっていなかったと思いますがお話を受けました。

そういった状態で異動する事に抵抗はなかったのでしょうか。

佐藤:特にありませんでした。

自分の力が生かせる所ならばどこでも頑張るべきですし、異動も自分のため、と考えていました。

私がそういった経験を持っていますから、メンバーには「異動は自分のためだから逃げないで受けて欲しい」と伝えています。

そして将来的には、「自分も転々としてきたので、あなたたちも移って欲しい」と言える人になって欲しいと思います。

部長がそういった経験をお持ちですと説得力がありますね。

そのあとは、管理者の道を進まれたのでしょうか。

佐藤:その移った病棟で、病棟機能の変更をするのに伴って、まずは主任職に就きました。

それも特に抵抗を感じることなく引き受けられたのでしょうか。

佐藤:そうですね。

師長から「今度主任が必要だから、あなたにお願いしたい」と言われて、「はい」と。

主任になられて感じたギャップのようなものはございましたか。

佐藤:すぐ師長になったので主任の期間が2年程しかありませんが、メンバーから主任になってもあまり変わった感じはしませんでした。

通常の業務も夜勤もそれまでと同じように行なっていましたから、あまり抵抗なく行えたと思います。

そうしますと、師長に抜擢されたのは大分早かったのでしょうか。

佐藤:師長になった当時31歳でした。

私もまさかその年齢で師長になるとは思っていませんでしたので、流石にその時は当時の総師長に「ちょっと待ってください」と言いました。

ですが、当時の総師長は当院が創設された頃から働いていらっしゃる方で、「私はあなたの歳には総師長でした」と、言われて返す言葉がありませんでした。

そして、「心配ならば初めは代行でも」とは言われましたが、やるのであれば代行に意味は無いですし、後に続く人のためにもならないと思いまして、師長になりました。

若くして師長になられてからは如何でしたか。大変なことはございましたか。

佐藤:若い時に師長になったことで困ったことは、やはり患者さん方に師長だと思って貰えなかったことだと思います。

メンバーと同じような看護服を着ていて、目印も何もありませんでしたから、患者さんの所に「師長です」と挨拶に伺ってもわかって頂けないことが何度もありました。

そういう意味では苦労したとは思いますが、当時の病棟メンバーの半数くらいが3年目以下の看護師でしたから、対看護師で年齢の面で苦労したことはありませんでした。

私より10歳ほど上の方も何人かいらっしゃいましたが、「支えるから頑張って」と助けても頂けました。

医師の方々にもよく叱られましたが同時に支えて頂いて、管理の基礎も指導して頂けたと思います。

本当に恵まれていました。

師長になられた後は、どのくらいで看護部長になられたのでしょうか。

佐藤:おおよそ循環器の病棟で6年師長、消化器内科・一般外科の病棟で2年師長をして、当時は副総師長と呼んでいましたが2009年に副看護部長になり、去年の10月からは看護部長として働いています。

看護部長になりますと、今までよりも更に広い視点を持つ必要があると思います。

その点で戸惑われたことなどはございませんでしたか。

佐藤:副看護部長のころは医療安全管理に専従しておりましたので、看護部長になってからまた看護部に深く関わるようになりました。

なので、全体に関わる関わり方や考え方を変えなければいけなかった点では少し苦労したとは思います。

でも副看護部長時代に医療安全をしていたことで、医局や他部署との関係を既に作れていましたので、その点では躓くことはなかったように感じます。

病院の外にも繋がりを持つことで得られるもの

今回、看護部長として病院のリニューアルをご経験されていらっしゃいますが、いかがでしたか。

佐藤:大変な時もありましたが、建設会社や設計士など、色々な方と知り合いになれて、お仕事も知ることができる貴重な体験でした。

何事も勉強で、今回のことを患者さんの生活指導に生かせるようになると思いますし、私は今回関わることができてとても良かったと思います。

病院の中だけで知ることができる物は限られていますから、色々な人に会って経験してみることも大切ですね。

佐藤:本当に今回は有り難い体験で、病院の中だけに居るとわからないことも多いです。

横の繋がりはとても大切だと思いますので、もっと知り合いを増やして、色々なことを教えて頂きたいと思っています。

近隣病院の看護部長の方々などとお話されることはあるのでしょうか。

佐藤:普段の部長としての仕事は、近くの病院の看護部長の方々に色々と教えていただきながらやっています。

今、年に2回、5病院臨床研究会という会を開いて情報交換をしています。

これは当院と松本市立病院、藤森病院、丸の内病院、一ノ瀬脳神経外科病院が病院として連携しており、院長主導ですすめられており、地域連携室が運営する集まりです。その中で、看護部長も交流しています。

やはり、みなさんご経験がありますので色々と相談ができてありがたい存在です。

他にも、認定看護管理者のセカンドレベル研修で出会った方々とも親しくさせて頂いて、支えてもらっています。

後編へ続く

松本協立病院に関する記事はコチラから

No. 54 佐藤康子様(松本協立病院)後編「ICTで見過ごされた看護を取り戻す」

病院概要

松本協立病院