No.40 堺文子様(レストア川崎)前編「新人の目標は毎日元気に出勤をする」

インタビュー

今回はレストア川崎の堺文子療養部長にインタビューさせて頂きました。

療養部長として看護部をまとめる堺療養部長の手腕に迫ります。

母も姉も看護師

看護師になろうと思った動機から教えていただけますでしょうか。

堺:母が看護師で、姉も看護師を目指して看護学校に通っていました。そういう環境で育ったことと、母からの「手に技術を持ったほうがいい」というアドバイスもあって、自然と看護師の道に進むことになりました。

周りのご家族が看護師を選ばれていたので、ご自身もその影響を受けてなったということでしょうか。

堺:母が仕事をしている時の、楽しそうといいますか、いきいきとした表情が印象的だったように思います。子供である私たちは忙しい思いもしたのですけれども。

看護学校に進学されて、今までキャリアをどのように進まれたのでしょうか。

堺:北九州の小倉にある社会保険の看護学校に進み、付属の病院に就職して4年間勤務致しました。

最初に配属された部署はどちらだったのですか。

堺:整形外科と耳鼻咽喉科の混合病棟でしたが、最初のころを思い出すと、休みの日がいらないくらい楽しかったです。

学生の時から実習の時の厳しさも知っていましたので、不安もたくさんありましたが、先輩方に恵まれて、本当に楽しい楽しい4年間でした。

学生時代のころから、看護師になることへの不安や期待を持っていたのですね。

堺:どこに配属を希望するか、面接で聞かれるんですね。私は内科病棟からスタートしたいという思いがあって希望を出したのですが、手術日は非常に忙しい病棟に配属が決まって、「内科病棟じゃないんだ」という思いでスタートしました。

でも同期がもう一人いましたので、心強かったですね。

整形や耳鼻科の混合病棟ということは、常に手術があって、術前術後のケアに追われるような毎日でしたか。

堺:手術日が整形と耳鼻科とで違っていましたので、耳鼻科は手術時間が短時間で入院期間も短くて、入退院が多くあって出入りが慌ただしかったように思います。

その忙しさや慌ただしさの中でも楽しいと思えたのはなぜなのでしょうか。

堺:覚えていくことも楽しかったです。それこそ、40数年前の話ですから、今と比べたら、精密な機械も少なかった時代です。あとは、やはり病棟師長のリーダーシップだったでしょうか。何かあったときに、「今日は勤務が終わったら食事に行こう」という機会が多かったですし、みんなで師長の家まで押しかけて行ったということもありました。

楽しさの中にはチームワークや、みんなで一丸となるという楽しさも大きかったですか。

堺:そうですね。仕事とプライベートは別なのですが、お互いに理解・信頼しあえる人間関係ができていったように思います。

新人の目標は毎日元気に出勤をする

新人の時に挫折する人が多い中で、いい新人時代を過ごすということは、その後にもつながっていくのでしょうか。

堺:実は、今も私は「新人は毎日元気に出勤をする」ということが一つの目標においています。

1カ月目は環境に慣れるでいいんじゃないかとよく口にするんですけど、急いで何を覚えなきゃいけないとか、覚えるまで残って勉強するとか、レポートを書いてくるとか、そういう風潮が少し前の時代にあって、看護協会も新卒ナースをしっかり継続教育できるようにという方針を出しましたので、そういう意味では、毎日元気で出勤できるということが一つの基本的なものかなと思いますね。

混合病棟で4年間過ごされて、その後はどのようなキャリアを過ごされたのでしょうか。

堺:結婚して子育てをしていましたので、8年ほどブランクがあります。

自宅から横断歩道を一つ隔てたところに総合病院があって、そこの小児科に子どもたちもかかっておりました。

通勤に時間がかからないことが第一条件でしたから、下の子が3歳になるのを待って、最初は非常勤での勤務で復帰しました。

そこではまた病棟勤務をされたのですか

堺:病棟です。ゆるやかな再スタートで、最初は半日勤務を2年くらいしたと思います。その後1日通しての勤務ができるようになって、そして夜勤もできるようになって、その間病棟はじっと待っていてくれたのです。

そこではトータルすると何年くらい勤務されたのですか。

堺:昭和62年から平成14年まで勤務しましたから、15〜16年でしょうか。

その間にお子さんも成長されて、次に移られたきっかけは。

堺:その後は、関連の病院で異動という形をとっています。

次に東戸塚記念病院という、急性期病院に2年間在籍し、その間に増築・改築・病棟移動ということを経験させてもらいました。

その後は透析と、療養病棟、障害者病棟がある相原病院に3年間勤務しました。

そして、横浜メディカルグループの一つである、新横浜リハビリテーション病院の立ち上げに伴って異動して、2年前までおりました。

レストア川崎はそこからの異動ということになります。

グループ内で異動がかなりたくさんあるということでしょうか。

堺:最初に勤務していたころは異動するというイメージがなくて、最後までずっとそこにいるだろうなと思っていた部分もあったのですが、異動を経験出来てよかったと思います。

いろいろな職場の環境がありますので、それぞれにプラス面や特色がありましたので、新横浜リハビリテーション病院の立ち上げの時には、それがすごく役に立ったような気がします。

グループならではのメリットという良い部分で、いろいろ吸収されて、異動もされながら、新病院の立ち上げという、一から作り上げることに携われたのですね。それによって、また次へのパワーにつながっていったのでしょうか。 

堺:新横浜リハビリテーション病院が私の看護の集大成だろうと、思っていたのですけれども、ここレストア川崎、初めての経験となる介護施設でのお話をいただいて、今は働かせていただいています。

管理職になられたのは、どの段階からになりますか。

堺:最初の総合病院からです。平成5年、当時は「総婦長」という呼称でした。

管理職歴がすごく長いのですね。

堺:そうですね。

介護職を頼りにしながら

そこで今トップをされて、看護部作りから今の体制ですと看護師だけではなく、もちろん介護スタッフの方を含めた多職種で働くという、新たな環境に身を置かれていると思います。

それまでの病院の看護師のトップから、介護施設での看護師のトップということで、違う部分もあるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

堺:規模もありますし、もちろん、その組織の使命というのもありますが、基本的なところ、例えば、人を育てるとか、職場環境を整えるといったところは同じだと思うんですね。ただ職種が今まで看護職が多い職場から、介護職が非常に多い職場にというところですので、自分の中でも戸惑った部分はあったかと思います。

ただ非常に頼もしい介護職がたくさんおりますので、介護職を頼りにしながら、看護と介護との連携をしっかりとれるようにしていきたいと考えています。

これまで、病院勤務の看護師や看護管理者の方からお話を伺うことが多く、看護師のキャリアの中で、施設の療養部長というポジションも看護師が担うということについて、多くの新人看護師や学生さんはイメージがわかなかったり、知らなかったりする人も多いと思います。看護のキャリアの中の一つとして、介護施設での療養部長としてのポジションといったところの、お仕事内容ですとか、どういったこと、介護職との連携をされてらっしゃるのかといったところを、詳しく伺えますか。

堺:病院だと病棟ですが、ここでは「フロア」と呼んでいます。

1階通所のフロアから2階3階4階という、4単位から成り立っています。

療養部長というのは、多職種との連携が非常に必要だと思っているところです。

介護施設ですから職種の違い、比率の違いもありますけど、人を育てていく部分は、基本的に同じだと思います。ただ介護施設は、日中は医師が一人と、非常勤で半日勤務の医師が週に数日というところでは、看護師がいかに利用者様の状態を把握して、体調管理ができるかという点が一つあります。

また、介護職と看護職の連携の部分で、コミュニケーションがとりやすいいい関係づくりができるか。

そこで、急性期を経験して介護施設に転職するなど、いろいろな経験をした上で来ていただいている方がたくさんいますので、年間の教育研修も、看護と介護が一緒に受けるので、そこは生活の部分をいかに整えられるかを考えていくことが必要です。

知らない部分で、なんとなく違いがあるんじゃないかと思ってしまっていたのですが、逆に入ってみれば、実際に行う業務的にも看護の観察、コミュニケーションの部分は基本的には変わらないということでしょうか。

堺:そう思います。

医師がすべてを診ているので、補助的なところの役割を看護師が担っていると思いますから、その辺の責任を、自覚をできる看護師を育てていきたいなと思います。

後編へ続く

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