No.271 我孫子東邦病院 大城充 病院長 前編:尖った病院の舵取りを担う

インタビュー

千葉県我孫子市にある我孫子東邦病院は、泌尿器科という尖った診療領域を持ちつつ、

二次救急病院として地域医療を支え続ける病院です。

今回は、病院長の大城充先生に取材を行い、先生のこれまでの歩みや、今後のビジョン、

看護師に対する思いなどをお聞きしました。

 

泌尿器科領域という圧倒的な強み

 

久保:本日は、我孫子東邦病院の病院長である大城充先生にお話を伺います。

まずは貴院の特徴について、改めてご説明いただけますか。

 

大城: 当院の特徴は、何と言っても泌尿器科領域の診療機能が高いことです。

 

 

もちろん、当院は二次救急病院でもありますので、

泌尿器科以外にも、内科や外科、形成外科、麻酔科医が常勤しています。

ただし、受診する患者さんの割合としては、泌尿器科の患者さんが圧倒的に多く、

ほぼ単科病院のような状態ですね。

 

久保:泌尿器科の診療というのは具体的にどういったものでしょうか。

 

大城:まずは人工透析があります。

 

 

当院には平成7年から透析センターが設置されており、

腎臓機能の低下した患者さんに対し、多診療科・多職種が連携して、透析治療を行う体制が整備されています。

また、治療環境としても、外来・入院それぞれに専用ベッドを用意しているほか、

血液透析、腹膜透析のどちらにも対応しているので、患者さんの状態や希望に合わせた透析療法が可能です。

 

久保:他にはどのようなものがございますでしょうか。

 

大城:実は、これが一番の強みかもしれませんが、

当院は、千葉県の私立病院では抜きん出て早く、手術支援ロボットを導入した病院なのです。

平成24年に保険収載されると同時にロボット手術を行ってきまして、

今では、全国の病院のなかでも、指折りの手術件数を誇ります。

 

 

久保:それほど、泌尿器科領域に注力されてきた貴院ですが、

開院当初から泌尿器科中心の病院だったのでしょうか。

 

普通の病院から少しずつ進化

 

大城:いいえ。開院当初は透析もやっておらず、

一般的な診療を行う、ごく普通の病院だったと聞いています。

 

 

ただし、創業者(前理事長・院長)が泌尿器科の医師だったので、

泌尿器科の外来や手術に力が入っていたということはあるかもしれません。

その後、透析を始めた頃から、少しずつ泌尿器科領域が拡大していったという状況ですね。

 

 

久保:手術支援ロボットの導入はどのような経緯で行われたのですか。

 

大城:当時、東日本では手術支援ロボットの導入がまだ進んでいなかったのですね。

反対に西日本では積極的な導入・運用が始まっていました。

創業者は東邦大学を卒業後、岡山大学の大学院に進学しており、その岡山大学の

泌尿器科医師が当院におり、その先生が西日本での経験を活かして導入したという経緯です。

 

 

久保:ありがとうございます。

次に少し目線を変えまして、大城先生ご自身についてお伺いしたいと思います。

まず、先生が医師になられた理由をお聞かせいただけますか。

 

父の言葉を胸に医師を志す

 

大城:中学3年生のときの父の言葉がきっかけですね。

私の両親は医師では無かったので、小さい頃の私は全く医療職に興味はなく、

いとこが受験したことをキッカケに出身である沖縄を離れ、熊本県にある全寮制の私立中学に入学しました。

 

 

そうしたなか、中学3年の夏休みに実家に帰省し、父と進路について話す機会があったのですね。

私は、父の跡を継いでも良いかなと思っていたのですが、父はそうではありませんでした。

当時の沖縄が、本土復帰で大変な時期だったこともあり、

「本土の資本が入ってきても負けないように、医師のような、

世界中どこにいても自分の資格で食べていける仕事に就いたらどうだ」と言ったのですよ。

 

 

話をされた瞬間は、あまり真剣に受け止めなかったのですが、その約1週間後、父は他界してしまったのです。

私には、父の言葉が遺言だった気がして、その言葉に従い医師をめざすようになりましたね。

 

久保:なるほど。それで、医師を志して、東邦大学の医学部に入学された訳ですね。

医学部に入学されてからは、どのような学生生活を送られましたか。

 

ソフトテニスに明け暮れた大学時代

 

大城:父の言葉を受け、熱い思いで入学した医学部でしたが、

大学に入ってからは、正直なところ、ソフトテニスばかりやっていましたね。

 

 

ソフトテニスは中学時代からずっと続けていたので、

大学に入ってからも、日曜日ごとに試合をして、毎月学内合宿をするなど、

母からも「何学部に入れたかわからない」と言われるくらいでしたよ。

 

久保:そうですか、ソフトテニス漬けの医学部生だったのですね。

先生は外科医師ですが、専門を決める上で、部活は何か影響がありましたか。

 

大城:そうですね。先輩の影響は大きかったと思います。

入部して間もなく、私はオール東邦のレギュラーになったのですが、

ある日、外科の研修医をしている先輩が練習に来て、その先輩と試合をすることになったのですね。

私は、ある程度自信を持っていたのですが、結果、完膚なきまでに負けてしまいました。

 

 

そのときは、医師としての道を着実に歩みながら、ソフトテニスも強いなんて凄いなと素直に思いましたよ。

その先輩に憧れて、同じ外科医師を志すようになったのです。

 

2回目は自らの意志で赴任

 

久保:大学卒業後、先生はどういったご経歴を歩まれましたか。

 

大城:当時は今のように初期研修・後期研修という制度がなかったので、

すぐに東邦大学の第一外科に入局し、その後4年間ローテーションを行いました。

 

 

ローテーションでは、一定期間ずつですが、いろいろなところに行きましたね。

最初は大学病院の消化器病棟に半年いて、その後ICUに行って、

次に日本赤十字社医療センターの麻酔科に行って、

大学に戻って検査番をして、小児外科をやって、1年間出張に出て、

また大学に戻って脳神経外科、心臓外科、呼吸器外科を回るといった具合で、本当にめまぐるしい4年間でした。

その後は、大学の人事でいくつかの病院に勤務しました。

 

 

久保:こちらの病院にも、大学医局の人事で来られたのですか。

 

大城:1回目はそうです。

私が赴任する前は、東邦大学とは違う大学から外科医師が派遣されていたのですが、

初期臨床研修制度が始まるタイミングで、全国的に指導医クラスの医師が大学病院へ引き上げられました。

そこで、東邦大学の第一外科に相談があって、私ともう1人が常勤医として赴任することになりました。

 

 

久保:1回目はということですが、2回目は医局人事ではなかったのでしょうか。

 

大城:2回目は自分の意志で赴任しましたね。

私が1回目に赴任して以降も、東邦大学が外科医師を送っていたのですが、

しばらくして、創業者の次男が外科医師になったことをきっかけに、

東邦大学ではなく、彼の出身大学が外科医師を送るようになりました。

ただし、どこの医局も人材が十分にいる訳ではありませんでしたので、

当院のような、症例数の限られる病院には、1人しか外科医師を派遣できなくなってしまったのです。

 

 

当時は、創業者も「外科が1人になっても、泌尿器科医師である自分が手伝って回していく」と

言っていたのですが、そのしばらく後、今度は創業者が重い病気である事が分かりました。

私は創業者から「手伝って欲しい」と頼まれ、恩もあるので医局に相談したところ、

創業者が動けないのであれば、1年間くらい手伝って来いと言ってもらえました。

 

久保:それで現在までこちらに赴任されているということですか。

 

大城:結局、創業者が亡くなったのは私が再赴任してから2年後だったので、

その2年間にいろいろありすぎて、他に移れない状態になりましたね。

 

 

久保:院長になられたのはどういった経緯だったのでしょうか。

 

大城:ここに再赴任してから1年間は、副院長だったのですが、

1ヶ月もしないうちに、創業者から交代して欲しいとの要請を受けました。

始めは断っていたのですが、いよいよ院長業務が遂行できないぐらい悪化したので、

引き受けることを決断しました。

 

 

後編に続く

Photo by Araki