No.225 社会医療法人社団光仁会 野村明子 理事長 前編:地域住民とともに70年の歴史を築く

インタビュー

終戦後、東京葛飾の金町に第一医院(現:第一病院)として開業し、診療所から病院への拡大、

茨城県への新病院開設、在宅医療部門の設置など、事業を拡張してきている社会医療法人社団光仁会。

その現理事長、野村明子先生に、第一病院の特徴や先生ご自身のご経歴を語っていただきました。

周囲の期待に応えて医師を目指す

中:今回は、社会医療法人社団光仁会 第一病院の理事長、野村明子先生にお話を伺います。

先生どうぞよろしくお願いいたします。

野村:よろしくお願いします。

中:最初に貴院の概要を教えてください。

野村:当院は創立から70年以上の歴史があり、来院される患者さんもご高齢の方が多くなりました。

地域密着型のケアミックス病院で、救急車も受け入れています。

建物の1階と2階が一般病棟でその一部を地域包括ケア病床とし、3階に療養病床を設置しています。

なお、社会医療法人社団光仁会としては当院のほか、茨城県守谷市に総合守谷第一病院という

199床の総合病院があり、当院との間に無料シャトルバスを運行しています。

そのほか、在宅医療を提供するクリニック、訪問看護ステーション、介護支援事業所などを展開しています。

中:ありがとうございます。

後ほど総合守谷第一病院についてもお尋ねさせていただきます。

まずは先生ご自身に関するご質問で、医師になられた動機をお聞かせください。

野村:それは当法人の沿革と関係しています。

私の父親は内科医、母親は外科医で、

戦後に二人が金町で始めた第一医院という診療所が当法人の出発点です。

のちに病院になり、私が一人っ子として生まれました。

私が自分の将来を考え始める頃には入院患者さんもかなり増え、職員も多数抱えていました。

当時のことですから、事務はもちろん、清掃や厨房のスタッフもすべて病院が直接雇用している状況です。

となりますと周囲から「あなたが後を継がないと、みんなが路頭に迷うから医者になって」と期待され、

その言葉に従って医師になったという経緯です。

親の背中を通して垣間見た地域医療

中:そうしますと小さな時からご両親が医師として働く姿を見られて育ったのですね。

野村:病院と自宅が隣接していましたから、

患者さんが救急搬送されてくると父や母が夜中でも出かけていくことがよくありました。

医師になると自分の生活を犠牲にしなければいけないのだなと思ったものです。

中:学生時代のエピソードをお聞かせください。

野村:私たちの時代、医学部に女性は一割弱しかおらず、

実習などでグループ単位に分かれると女性は私だけという状況になります。

しかもグループ分けは入学時の出席番号で決まり、卒業まで変更されません。

そのため高学年になり実習が増えると、朝から晩まで同じ仲間で過ごすことになります。

その結果、阿吽の呼吸で意思が通じるようになり、居心地は悪くなかったような思い出があります。

中:卒業されてからはどのようなご経歴でしょうか。

野村:循環器医として研鑽を積むとともに、

とにかく「病院の後を継がなくてはいけない」との思いで過ごしてきました。

かなり大変なこともありましたが、何とか病院を潰さずやってこられ、

今は奇跡としか言いようがないような気持ちでおります。

病院を守り抜いた足跡

中:特にご苦労されたことはどのようなことでしょうか。

野村:茨城の総合守谷第一病院は、内科、外科はもちろん、眼科や産婦人科などほぼ全ての診療科を

標榜している総合病院なのですが、一時期の大学病院医局への医師引き上げに強い影響を受けました。

中:産婦人科医の不足が特に深刻だったようですね。

野村:周囲から「周産期はもう辞めませんか」という声も上がったのですが

「絶対辞めません。何とかします」と粘りました。

母が女子医大出身で至誠会第二病院の院長の任に就いたまま亡くなったのですが、

その後任の院長が産婦人科医だったことから相談にのっていただき、ドクターを紹介いただきました。

また日本医大の学長の奥様が近所で開業されていて、その奥様にもドクターを紹介いただいたりしました。

結局、里帰り出産はお断りすることになったものの、産婦人科医療は継続できました。

本当に考えられる限り、ありとあらゆること全部を試しました

中:ご両親が作られた病院を必死に守られてきたのですね。

野村:患者さんも職員もいますので「何とかしなければ」という思いでした。

お陰様で運が良かったのだと思います。

ただし今でも医師の補充には心を砕いていて、

大学病院の医局長の先生をお尋ねして情報交換などをしています。

理事長職の活動とともに臨床も継続

中:茨城の総合守谷第一病院設立には、どのような背景があったのでしょうか。

野村:総合守谷第一病院を開設したのは今から30年ほど前、年号が平成に変わった後です。

金町の第一病院がだいぶ年数が経過してきてマイクロサージャリーなど最先端の医療を提供しにくくなり、

かといって多数の入院・外来患者さんがいる状況では閉院もできませんので、

新病院建設ということになったようです。

タイミングよく守谷市の都市計画に病院誘致の話があり、それにエントリーし開院したという流れです。

当時はバブル時代ですから、融資も受けやすかったようです。

中:その後、先生が法人理事長に就任されたのですね。

臨床医時代と法人経営者になられた後の、大きな違いはどのようなことでしょうか。

野村:理事長職としては、先ほど申しましたように大学の医局を回りドクター派遣の相談を

させていただいたり、医師会の先生方とのミーティングやら、結構時間があっという間に過ぎてしまいます。

ただし私は経営だけではなく、金町の第一病院では今も臨床を続けていて、外来や病棟を担当しています。

後編に続く

Interview with Araki & Carlos