開設110年という長い歴史を持つ佐々総合病院の院長、鈴木隆文先生。
インタビューの前編では、先生のご経歴を中心にお話を伺いました。
開設110年
嶋田:今回は佐々総合病院院長の鈴木隆文先生にお話を伺います。
先生、どうぞよろしくお願いいたします。
鈴木:よろしくお願いします。
嶋田:まず、貴院の特徴を教えてください。
鈴木:当院は183床と、中規模の急性期病院です。
明治41年の開設ですから、110年の歴史を有しています。
10年ほど前から戸田中央医科グループ(TMG)に加わり、
その中でチーム医療を大切にしながら地域のニーズに応えています。
嶋田:次に、先生が医師を目指された動機をお聞かせください。
鈴木:高校の途中までは具体的なことは特に考えていませんでした。
ところが祖父の入院や祖母の他界といったことが身内に重なり、
次第に医師という職業を意識するようになりました。
少し話を先回りするようですが、
祖母はその後わたしが院長を務めることになる当院で看取っていただきました。
嶋田:医学部に進学されてから、何か思い出に残るエピソードはございますか。
鈴木:実家は医師家系ではないため、病院実習が始まってからは見るものすべてが新しく、
興味深く学んでいました。
ただ、正直なことを言いますと、病院実習が始まるまでは運動部のクラブ活動に精を出していました。
嶋田:運動部は何をされていたのでしょうか。
鈴木:スポーツの中でも球技が好きで、高校の時は野球、大学に入ってからはバレーボールでした。
女子医大消化病センターへ
嶋田:外科に進まれたきっかけはどのようにことでしたか。
鈴木:外科医になれば、自分の手で直接的に病巣にアプローチし疾患を治せると考えたからです。
また、これは医師を目指した理由でもあるのですが、少し前に流行った
ベン・ケーシーや白い巨塔といったドラマを観て「外科医はかっこいいな」と思った影響もあります。
嶋田:サブスペシャリティ領域はどのように決められましたか。
鈴木:当時は医学部卒業後、出身大学の付属病院に行くのが当たり前でした。
しかし私は先ほど申しましたように学生時代は勉強より運動、あるいはアルバイトに時間を使う生活だった
こともあって、卒業後は少し本気で勉強しようと考えていました。
そこで当時、日本で一番厳しいと言われていた東京女子医大の消化器病センターにチャレンジし、
素晴らしい指導者に巡り合えました。
ですから私は消化器外科が専門です。
嶋田:敢えてご出身大学の病院ではなく、女子医大の厳しい部門に飛び込んだのですね。
行かれてみて、やはり大変でしたか。
鈴木:最初は厳しかったです。
家に帰ることはほとんどありませんでした。
「大変だと思うなら明日から来なくていいよ」と言われ、
自分でしがみついて行くしかないと頑張っていたような記憶があります。
女子医大には「医療練士制度」という6年間一貫の独自の研修制度があり
「この年にはこれを習得し、こういう努力をしなさい」というプログラムが明確に示されていました。
それに乗り遅れないため、怠ける暇などない6年でした。
嶋田:では6年間、夢中で消化器外科医としての腕を磨かれたのですね。
鈴木:私は消化器でも特に肝胆膵を専門としていました。
それには自分の親が肝炎を患っていたことが関係しています。
肝胆膵の手術は現在でも難しい分野ですが、女子医大には超一流の上司がいまして、
その先生の手術が実に魅力的でした。
自分もいつかはあのような手術をできるようになりたいと憧れながら、研鑽を積んでいました。
祖母を看取った病院の院長に
嶋田:女子医大での6年間が終了した後のご経歴を教えてください。
鈴木:女子医大の関連病院を数カ所回りました。
そのうちにあるグループ病院から院長職の打診があり、お受けいたしました。
嶋田:こちらの病院に来られる前に、他院で院長をお務めだったのですね。
病院のマネジメントにもともとご興味がおありだったのでしょうか。
鈴木:いくつかの病院で外科の医局長や部長を務め、
電子カルテの導入を主導するなど若干のマネジメント経験はありました。
それ以外に、あまり偉そうに言うものではないかもしれませんが、
経営に関する書籍を読んだりして多少勉強していました。
嶋田:こちらの病院にこられたのはいつ頃でしょうか。
鈴木:約4年前です。
前職の病院の理事長と当院の理事長が顔なじみで、私を当院に誘ってくださいました。
先ほど申しましたように、ここは祖母を看取っていただいた病院で、しかも自分の出身地の
田無にありますのでの「佐々総合病院ならぜひ行きたいです」というかたちで決まりました。
当初は副院長として着任し、2年ほど前から院長を務めています。
後編に続く