No.206 つくばセントラル病院 竹島徹 理事長・院長 前編:理想の病院を目指して開院

インタビュー

今年で30周年のつくばセントラル病院は、現理事長・院長の竹島徹が開設された病院です。

開設から現在に至るまでの沿革やご苦労、それを支えた理念を語っていただきました。

開設30周年

中:今回は、つくばセントラル病院、理事長・院長の竹島徹先生にお話を伺います。

先生、どうぞよろしくお願いいたします。

まず、貴院の沿革と病院経営に対する理念をお聞かせください。

竹島:筑波大消化器外科の講師を13年務めた後、思うところがあって当院を開設しました。

今年がちょうど30周年に当たります。

経営理念は七カ条があり全職員のポケットにメモを入れて常に意識していただいています。

その第一条に「一人の人を大切にする医療と福祉の活動に徹底する」とあります。

主旨は、人の命の平等、ボランティア精神を謳っています。

工学部志望から医学部志望へ

中:後ほど看護師への期待などについて詳しくお尋ねいたしますが、

まずは先生のご経歴に関する質問として、医師になろうとされた動機をお聞かせください。

竹島:実家は医業と全く関係なく、当時は工学の人気が高かったという時代背景もあり、

私も工学部希望で医学部は念頭にありませんでした。

ところが高校2年の時に急性網膜炎という眼疾患を患い、一時的に失明に近い状態になってしまい、入院下で

ステロイドをはじめとする治療を受け、半年近く経てどうにか視力を取り戻せたという体験をしました。

医学の道を志すようになったのはそれからです。

外科医の責任と達成感

中:ご専門領域はどのように決められましたか。

竹島:私は千葉大の第二外科、中山恒明先生という今も日本の外科学に名を残す先生でしたが、

その伝統を継ぐ教授のもとで、消化器外科を修得しました。

外科は患者さんの体にメスを入れます。

目的は疾患の治療とは言え、それは人を傷つける行為でもあります。

それだけに重い責任があり、かつ達成感があるのではないかと考えたことが、外科に進んだ理由です。

理想の病院を目指して

中:医師になられて最も思い出に残るエピソードはどのようなことでしょうか。

竹島:筑波大で講師を務めていた時のことです。

若い女性患者さんが胃がんで入院されてきました。

開腹したものの既に手の打ちようがない状態で、すぐに閉じて手術を終えました。

実はその方と私は自宅が近く知り合いの仲でした。

3人の小さなお子さんがいることもよく知っていましたので、

可能な限り命を永らえてほしいと切実に思いました。

しかし、大学病院では行う治療がもうありません。

そこで離れた場所の小さな病院に転院していただき、

体力維持を目的に当時最新の栄養管理法であり私の専門の一領域でもあった高カロリー補液を続けました。

毎日のようにその病院に通ったものです。

もちろん完成品はまだ流通していませんから、50%グルコース液他を使い自分で点滴を作成しました。

また、当時はがんの告知をしない時代でした。

そのためその方に対する私の説明もしどろもどろになり、歯がゆい思いをしました。

この患者さんを診た経験から

「病名をはっきり伝えて患者さんとともに治療にあたりたい、患者さんを切り捨てない優しいがん治療を行う施設がもっと増えてほしい」

と考えるようになり、それが当院開院に繋がっていきます。

中:そのような背景がおありだったのですね。

続けて開院前後のことをお聞かせください。

竹島:筑波研究学園都市というのは当初、畑や林が一面に広がっていて大学もその中に建っていました。

それが急速に都市化してきたわけですが、病院は長らく筑波大病院しかありませんでした。

大学病院には高度専門治療の適応がない患者さんが入院し続けることはできません。

大学病院と連携して患者さんをお引き受けして、自分が納得のいく医療を提供できる病院を作りたい、

それが一番の動機です。

時代的な背景も関係しています。

昭和63年、間もなく基準病床数が定められ自由にベッドを増やせなくなる直前でした。

そのような政策変更が予定されていることを私は全く知らずに準備していたのですが、

開院を具体的に考え始めた時にその情報を耳にして、踏み出すタイミングは今だと決めました。

当時はまだバブルが続いていたので銀行が融資に積極的だったことも恵まれていました。

中:先生の強い動機と時代がちょうどマッチしていたということですね。

竹島:そうです。

今となっては、どんな理想的な病院を作ろうとしても、法律上ベッド規制されていて困難だと思います。

病院経営で大切なコミュニケーション

中:臨床や大学での後進指導から離れて、病院を経営するという立場になられ、いかがでしたか。

竹島:「開院したら胃がんや膵臓がんの手術をどんどんやろう」と

医者生活の延長くらいに思っていたのですが、経営の難しさに気づかされました。

それこそレセプト請求についても詳しいことはほとんど知らない状態でスタートしましたから。

医師は私でなくても代わりになる人を集めればなんとかなります。

しかし経営者は私しかしいません。

そこで外科医稼業はある程度手放して病院長稼業に入りました。

中:病院経営上、特に大切と感じられたことはどのようなことでしたか。

竹島:医者という職業は、知識と手技があれば結構一人でもできる仕事ですよね。

しかし経営となると全く一人ではできません。

異なる領域で経験を積んでこられた人たちとコミュニケーションをとって

力を合わせることが非常に大切です。

当然のことですが、そんなことにも初めて気づきました。

看護師確保のハードル

中:スタッフを集めるご苦労もおありだったと思います。

開設当初、何人で始められたのでしょうか。

竹島:スタッフ数は現在1,200名ですが、最初は100名強でした。

看護師の確保が最も大変でした。

なにしろスタッフの5割が看護師ですから。

「この指とまれ」と募集をかけて集めたわけではありません。

私の考えに同調していただける人に来ていただきたかったのです。

そのためにご自宅をお尋ねして、自分の理念を語り

「一緒に仲間になっていただけませんか」とお願いすることを続けました。

どうにか人員を確保してスタートできたはいいものの、途中で辞めていく人もいますから、1年目

ついに看護師不足で1病棟閉鎖しなくていけなくなりました。

当然、看護師以外のスタッフはそのまま雇用し続けるわけですから、経営上たいへんな損害です。

危機的な苦労でした。

いろんなことがありました。

後編に続く

Interview with Araki & Carlos