No.193 横浜市立大学附属市民総合医療センター 後藤隆久 院長 前編:人生を変える出会い

インタビュー

横浜で最大規模の病院、横浜市立大学附属市民総合医療センターの病院長後藤隆久先生に、学生時代に

熱中されたというボート部でのご体験と現在の医療への取り組みとの関連、ご留学のお話などを伺いました。

ボート部での鍛錬

中:今回は横浜市立大学附属市民総合医療センター病院長の後藤隆久先生にお話を伺いします。

先生、どうぞよろしくお願いいたします。

後藤:よろしくお願いします。

中:まずは貴院の特徴を教えてください。

後藤:当院は横浜市大にある2つの附属病院の1つです。

金沢区が本院で当院は分院という位置付けですが、実は横浜市内で最も大きな総合病院は当院です。

726床あり、高度救命救急センターや総合周産期センターとなど複数のセンターを擁し、

横浜の医療の最後の砦と自認しています。

中:次に、先生ご自身のことについてお伺いします。

医学生時代の思い出をお聞かせいただけますか。

後藤:大学に進学と同時に入部したボート部での経験が鮮明な思い出です。

先生方は「学生時代は身体を鍛えろ」とよくおっしゃり、1、2年生の間はひたすら鍛えていました。

先輩の「頭が筋肉になるまでボートを漕げ」という言葉を真に受けていたほどです。

4か月間の合宿もありましたし、合宿以外の時期は体育館でバーベルを上げたり、

走ったりしていたものです。

スポーツとチーム医療

中:ボート部の練習に熱中されたことは、精神的な面にも何か影響はございましたか。

後藤:当時1、2年生の間は一般教養で医学の学習は3年生からのため、

最初の2年はモチベーションが上がりにくい時期なのですが、私の場合、

部活動に参加し早い時期から先生や先輩を通して医学に触れたことで、高いモチベーションを保てました。

練習の合間にふだんの仕事のお話、例えば難しい症例への対応などのご経験を語ってくださり、

その時の態度がとても楽しそうで、かつ誇りに満ちていて感銘を受けるとともに

「医学部に入って良かった」と改めて思いました。

中:厳しい練習で身体を鍛えられたことが、その後、医師になられてから役に立ったと思われますか。

後藤:ボートは一人一人が別々に頑張っても、漕ぎ手同士、

あるいは漕ぎ手とコックス(舵取り)の息が合わないと早く進みません。

全員が同じ目標を持ち、同じ方向を向いて練習していく必要があります。

このような練習は、いま考えるとチーム医療の実践に繋がるものがあるように思います。

目標を持ち計画を立てて、自分とチームを鍛えていたことは、非常に貴重な経験でした。

私も医師になり大学での経歴が長くなりましたが、いま若い人たちを見ていますと、

やはり部活で鍛えてきた人達は、そういう感覚を身体で理解しているようなところがあり、

目的意識やチーム医療におけるパフォーマンスが高いように感じます。

麻酔科への道

中:先生のご専門は麻酔科と伺いましたが、どのような理由から麻酔科医を目指されたのでしょうか。

後藤:私は、重症患者さんの生命を救うという医療に憧れがあり、集中治療を専門にしたかったのです。

ところが当時、大学には集中治療医学を習得するための講座はなく、専門医制度もありませんでした。

そこで周囲にいろいろ相談していると、ペインクリニックに進もうとしていた友人から

「帝京大に森田茂穂先生というアメリカ帰りの素晴らしい麻酔科の先生がいるらしい」という情報を教えてもらいました。

その友人が森田先生の所へ訪問するというので私も一緒についていき、2時間もお話しさせていただきました。

先生は「グローバルに目を向けてトレーニングしろ。その機会を用意してあげる」とおっしゃり、

話を聞いていて未来が開ける感じがしたことを記憶しています。

「ああ、この人にはついていける」と即断し、その場で「僕も麻酔やります」と言って

友人と二人で研修させていただくことを決めました。

ちなみにその友人は今、当院のペインクリニック科の主任をしていて、

約30年ぶりに同じ場所で働いています。

 

人生を変える出会い

中:では、麻酔科へ進まれたのは、師となる先生との出会いがきっかけだったのですね。

後藤:全く考えてもいなかったことで、劇的な出会いでしたね。

人生を変える出会いが三つあると言いますが、その中の一つです。

もう一つは家内と出会ったことです。

中:素敵ですね。

あと一つはなんですか。

ハーバードイズムの継承

後藤:もう一つは、森田先生が本当にアメリカにレジデントの席を用意してくださり、

ボストンのマサチューセッツ総合病院に留学した時の麻酔科主任教授です。

「日本から来た君たちは、ここで学んだハーバードイズムを母国に持って帰って広めて欲しい」と

おっしゃり、実際にそこに留学した日本人の何人かは国内の大学で麻酔科の教授をされていますし、

一人はアメリカに残ってハーバードの麻酔科の教授になられています。

私も当時教えてもらったハーバードイズム、世界でトップレベルの学問の都の考え方や雰囲気を、

次の世代に伝えていくのが使命だと考えています。

※お写真右はMGH麻酔科の主任教授Dr. Kitz   ※左は帝京大学麻酔科の森田茂穂教授

中:出会いによって人生が大きく変わるという素晴らしい話ですね。

では、ご帰国後に病院長に就任されるまでのご経歴を教えてください。

後藤:私自身、病院長はもちろん大学教授にもなろうとは思っていませんでした。

と申しますのも国公立大学の麻酔科の教授はどこも一人で、通常、

一度就任すると定年まで10年以上勤めます。

ですから新たに就任できる機会はごくわずかで、それを人生の目標にするわけにはいきませんので。

しかし私は若い人たちと一緒になって働いていることが肌に合っていて、大学病院にずっと残っていました。

そんな時、ひょんなことから横浜市大に呼んでいただき教授職を務めることになり、

病院長もやはり上の先生が推薦してくださって就任することになりました。

病院の向かう方向を統一

中:病院長になられる際には何かお覚悟はございましたか。

「病院長を任せるからやってくれ」と学長に言われた時は即答できませんでした。

時間を1日いただき「これだけ大規模な病院を任せると言われた以上は、真剣に取り組まなければいけない」

という悲壮感とともに考えた末、翌日、学長に「はい」と申し上げました。

後編に続く

Interview Team