No.189 横浜労災病院 梅村敏 院長 前編:安全と信頼の確立

インタビュー

現在、日本高血圧学会の『高血圧診療ガイドライン』改訂版の編集を取りまとめられている梅村先生に、

横浜労災病院院長ご就任までご経歴や病院の理念などを語っていただきました。

キャンパス外の喫茶店での講義

中:今回は、横浜労災病院病院長の梅村敏先生にお話を伺います。

先生、どうぞよろしくお願いいたします。

梅村:よろしくお願いします。

中:まず貴院の特徴を教えてください。

梅村:当院は「みんなでやさしい明るい医療」という理念を掲げています。

「みんな」というのは‘チーム医療’のことを指し、「やさしい」は‘患者さんを第一にする’ということ、

「明るい」は‘職場が明るい’ということと、私なりに解釈しています。

つまり、患者さんを第一にして、かつ、働いている人にも満足感が得られる病院を目指しています。

中:ありがとうございます。

後ほど、地域における貴院の位置付けなどをもう少し詳しくお尋ねさせていただきます。

その前に、先生がお若かった頃、医学生時代のエピソードをお聞かかせください。

梅村:私が大学に進学したのは1969年で、この年は学生運動の嵐が吹き荒れていて、

入試が中止される大学もありました。

このような世相も、私が医師を目指すことになった理由に関係しています。

私が入学した横浜市大も、入学数ヵ月後に学園封鎖されてしまい、キャンパスの外の喫茶店で、

先生を囲み勉強を行うという、今では考えられない有り様でした。

ただ、そういう世相だけに、

世の中が抱えている問題を今の学生よりも深く考えていたという面もあるかもしれません。

学生時代のもう一つのエピソードは、山岳部に入り日本中の山を歩き回ったことです。

日本の南アルプス、北アルプスをはじめ、多くの名高い山に登りました。

とても懐かしい思い出です。

中:先生が医師になられた経緯に学園紛争が関係していたとのことですが、どのような関係でしょう。

医師を目指された動機からお聞かいただけますか。

梅村:小学生の頃にシュバイツァー博士の伝記を読んで「こういう生き方って素晴らしいな」と思ったのが、

医師を意識した最初だと思います。

ただ、高校生の頃には研究者も目指すようになっていました。

ところが、いま申しましたように、大学入試が中止になるような状況のなか受験し、

合格した医学部に入ったというわけです。

二度の米国留学

中:医学のご専門領域は、どのように決められましたか。

梅村:卒業の1、2年前に、東大から金子好宏先生が横浜市大にいらっしゃいました。

後に日本高血圧学会を設立された先生です。

とてもユニークな先生で、私は金子先生の影響を受けて、血圧に関係する循環器、腎臓、内分泌などの領域を

専門とするようになりました。

金子先生は「とにかく医者は海外留学しなきゃいけない」と口癖のようにおっしゃっていたため、

私も医者になって5年目ぐらいにテキサス大学に留学しました。

ダラスにあり、ケネディ暗殺事件の際に大統領が搬送されたことで有名なパークランド・メモリアル病院も

その教育病院です。

約3年で帰国しますと、ボスから「もう一度アメリカへ戻って来い」と言われて結局2回留学しました。

事故・事件対応が連続

中:帰国後に横浜市大にお勤めされたのですね。

梅村:横浜市大第二内科に戻りまして、教授に就任してからはさまざまなことを経験しました。

一つは、よく知られている外科の患者取り違え事故(1999年)です。

現在、手術を受ける患者さんへのリストバンド等のネームタグ使用、術前の口頭での氏名確認などの

安全対策が日本中の医療機関で行われていますが、その契機となった事故です。

この事故の発生後に病院から「医療安全の責任者を務めてくれ」と指示され、

さらに1年後には副院長となり、全国の大学病院で初めて統括安全管理者という役職に就きました。

今ではどこでも行っているインシデントリポートやアクシデントリポートを導入したり、

海外の専門家を招いて講演会を開催したりしました。

中:とてもお忙しかったのではないでしょうか。

梅村:大変な日々でしたが、いま振り返れば貴重な体験だったと感じます。

そして数年経ちますと、博士号を取得した後に指導教授へ謝礼を渡すという、

多くの大学で以前から行われていた行為がニュースで明るみになり、

その改善のために医学部長に任命され、医局の規約を作り変えて民主的に運営するように改革しました。

さらに院長に就任しますと東日本大震災が発生し電力不足への対応、それが過ぎると

まだ記憶に新しいディオバン事件が起きて日本高血圧学会の刷新のため周囲から推され、学会理事長に就任。

理事のメンバーを数千人の高血圧学会の学会員による選挙で選ぶという

当時はまだ珍しかった規定を作りました。

それが一段落しますと今度は「横浜労災病院の院長に」というお話をいただき、今に至るという流れです。

中:事故や事件への対応の連続だったのですね。

先生は組織改革やルールを構築することに長けていらっしゃるのでしょうか。

梅村:好きでやってきたわけではなく、

偶然そういう「ピンチをチャンスに」という役回りが続いたように感じています。

患者さんを第一に

中:そのようなお忙しさを経験された後、今度は院長として病院の運営を担うことになられましたが、

それまでとは異なるご苦労がおありでなかったでしょうか。

梅村:大学病院の教育・研究・診療中心の教授職とは異なり、大変な面もあります。

しかし基本はやはり、先ほどの当院の理念どおりで、患者さんを第一に考えてきました。

それに尽きます。

当院は良い理念を掲げていると思います。

この理念は私が着任する前から存在したものですが、医療の実践の本質を表しているのではないでしょうか。

当院では看護師もこの理念に共感し、同じ方向に向かって日々の業務に取り組んでいるように感じています。

後編に続く

Interview Team