No.148 林和代様(平塚十全病院)前編「失敗を糧に」

インタビュー

今回は平塚十全病院の看護部長、林和代様にインタビューをさせて頂きました。

林看護部長の手腕と魅力に迫ります。

父の入院

看護師を目指されたきっかけを教えていただけますか。

 

林:高校3年の終盤に父が怪我で入院した時のことです。

初めて看護師を身近に見て

「格好いいな、素敵だな。自分もあのようになれたらいいな」と思ったのがきっかけです。

教員に「看護学校を受けます」と言ったところ

「進路を変えるのにはもう遅すぎるのでは?」と心配されましたが、看護師になりたいという思いが打ち勝ちました。

レントゲンフィルムを自ら確認

林:最初に就職したのが循環器系の専門病院でした。

胸痛のため救急車で搬送されてくる患者さんや、心筋梗塞で来院される患者さんを前にして、

私は何もできず、先輩に叱られるなど様々なことがありました。

もう30年も40年も前、

術後の患者さんが収容されるリカバリールームと呼ばれていた回復室に配属された時のことです。

夜間ずっと患者さんを看ているのですが、

ある夜、人工呼吸器を付けた患者さんが無気肺を起こしてしまいました。

医師から「夜間ちゃんと吸引したのか?」と聞かれ、

レントゲンを見せられて「ここにあるだろ」と言われたときは、すごく辛かったです。

しかし、

それが今の私を支えていますし、その時から自分のケアに絶対に責任を持たなくてはいけないと感じました。

この経験の後から、夜勤に入った時には血液ガスのデータを確認し、

レントゲンがオーダーされていたらフィルムを自分で見るようになりました。

先輩から技を盗む

失敗を糧として学びながら自分の責任の幅を広げていったということでしょうか。

林:そうです。もちろんその医師に対して最初は反感をもちました。

しかしそのように言われたから自分の技術を磨き、本を開いて学ぶことができてきたのだと考えています。

また昔はよく「吸引の方法ひとつにしても、先輩から技術を盗まなくてはいけない」と言われ、試行錯誤を繰り返していました。

私にとってはそれが看護師を続けていく大きな力となりました。

多くの施設での経験

看護部長になるまでの経緯を教えてください。

林:出身地の福井県で看護師としてしばらく働いた後、

都会に憧れて30歳くらいの時に神奈川県に移住し、県立がんセンターや厚木市立病院に勤めました。

その後、神奈川県の実践教育センターという卒後教育機関に異動になり、

さらに現在の県立精神医療センター、当時は芹香病院という名称でしたが、そこで副看護部長に就きました。

副看護部長として4年間勤め定年退職を迎えた後、当院に当初、教育担当という役職で入職しました。

その後、看護部長となり現在に至ります。

がんセンターに勤めていた時、師長への昇進に際して看護部長が2時間も割いて、

師長の心得を一対一で伝授していただいたことには今でもたいへん感謝しています。

師長という職はそれまでとは全く別な世界であること、

まず半年間は注意深く職場をみることに徹し業務改善の試みなどはしないこと、

その間、自分が何をすべきかよく考えることなど、看護管理に関するありとあらゆることを教えていただきました。

ナインチンゲールの金言

 

看護観についてお聞かせください。

林:私はナイチンゲールの「その人の病気が進行していても、それは回復過程である」という言葉が大好きです。

だからどんなに患者さんが辛い思いをしていても、患者さんに寄り添っていくべきであり、看護師が患者さんの回復を阻害してはいけないと思っています。

たとえ看取りであっても、その人が安らかに息を引き取るのを阻害してはいけない、そのように思ってきました。

ポジティブ思考

 看護部長になられてから苦労したことをお聞かせください。

林:私は考え方がポジティブなので、あまり苦悩は感じないほうです。

何か問題が起きても「後からでなく、今わかってよかったじゃない」と思うようにしています。

その時点から対策を立てて良い方向に持って行けばよいのです。

過去から学ぶことはあっても起きたことは変えられないので、くよくよしてもしょうがないと考えるようにしています。

ポジティプ思考になられたきっかけはありますか。

林:循環器病院やがんセンターなどで、深刻な病気で入院し辛いはずの闘病生活、

化学療法を続けながらも明るく過ごされ頑張っている患者さんに接してきたからではないでしょうか。

決してネガティブな患者さんは頑張っていないというのではありません。

しかし同じ頑張るなら、前向きに考えた方が力を出せるのではないかと思います。

後編へ続く