No.143 病院長 金丸峯雄様(明理会中央総合病院)前編:この地に急性期医療をなくしてはならない

インタビュー

患者さんの声を大切にされる金丸先生より、患者さんで溢れかえる明理会中央総合病院に至る経緯などお話いただきました。

 

前病院時代からの地域医療を再スタート

 

明理会中央総合病院の院長になられた経緯をお聞かせください。

 

金丸:当院の開設は2009年11月ですが、私は開設前この地に東十条病院があった頃、1999年から8年間、血液内科医として勤務していました。

諸般の事情により東十条病院が閉院した時は、春日部の市立病院にうつり診療を続けました。

多くの患者さん方とお別れすることになり、本当に寂しく残念でした。

その後、当地に新たな経営母体により当院が開設することになり、自分の原点に戻るつもりで異動してきました。

 

 

実際に戻ってこられた時は、どのようなお気持ちだったのでしょうか。

 

金丸:この地域には以前は存在していた急性期病院がなくなり、丸2年間、地域住民や周辺医療機関に多大なご迷惑をかけていました。

戻って来た限りは何があっても、ここの急性期医療をなくしてはならない。

それが私の一番の信念であり、目標でした。

しかし正直なところ、私が着任した開院1年目はなかなか患者さんに戻って来てもらうことは出来ませんでした。

 

 

外来患者数は、旧東十条病院時代の1/3ほどに減っていました。

その状況を目にした時、病院が突然無くなり多大な迷惑をかけ患者様の信頼を失ったことを痛感いたしました。

「これからは絶対にここ東十条で急性期病院を無くさないようにしよう。一生懸命頑張っていれば、人はわかってくれて戻ってきてくれるだろう」と思い8年間走ってきました。

 

それが今、本当に結果になり、患者さんであふれていますね。

金丸:すごく嬉しく、ありがたいことだと思います。

 

患者さんのためを考えることを学ぶ

 

医師になられようと思った動機を教えてください。

 

金丸:小学生の頃のある日、台風の翌日に、友だちと増水した川を見に行きました。

すると、河原に大人が集まり「大変だ」と叫びながら走り寄り、人工呼吸を始めました。

小さい女の子が増水した川に落ちてしまったのです。

僕らは手伝うどころか、近くにも寄れず、遠くで恐る恐る見ているだけ。

その時「本当に情けないな」と感じて「人のためになる仕事をしたい」と思ったのが最初です。

 

 

医学部を目指し勉強しましたが、受けた大学は全部落ちてしまいました。

山梨の高校で成績はずっと上位でしたが、初めて自分の実力のほどを思い知りました。

それから奮起し東京に下宿し予備校通いをして、ようやく日大医学部に進んだというわけです。

 

患者さんは人生の大先輩

 

患者さんとのエピソードを教えてください

 

金丸: 医者になりたての時、一人の患者さんを受け持たせていただきました。

40代半ばで小さいお子様が二人おいでになる、白血病の方でした。

その方の治療がうまくいかずに徐々に具合が悪くなっていかれる。

すると、患者さんの部屋に行くのが正直つらくなりました。

自分はまだ駆け出しですから、治療方針を立てられるわけもない。

患者さんの苦痛を取るためにできることは話を聞くことくらいしかできない。

 

 

そこで話を聞きに行きました。

「最低1日3回」と決め頻繁に訪れました。

結局なにもかけてあげる言葉がなくなるのですが、そばに座ってずっと患者さんの言うことを聞いているだけでも

「何か気休めになるのではないかな」と思い、聞いていました。

するとその患者さんは私のことをすごく信頼してくださるようになりました。

結局お亡くなりになりましたけど

「本当にありがとうございました」

ということをご家族に言っていたと、後でお子様から聞いて救われた思いがしました。

 

 

患者さんから学ばれたということでしょうか。

 

患者さんは人生の大先輩ばかりです。

医者というのは、どうしても自分のテクニックや知識に溺れてしまう人も少なくありません。

「客観的に患者を見るのが医者だ」という考え方もありますが、人の気持ちは客観的なデータからだけでは絶対にわからないはずです。

私は、白血病で残された時間の1分1秒を全力で生きていかれた方の姿に、尊敬の念しかありません。

患者さんが師のように思えたりもします。

このような感覚はすべての医療職者が持たないといけないのではないかと考えます。

 

後編に続く

 

Interview Team