No.140 丸尾明代様(大阪急性期・総合医療センター)前編「毎日一人ひとりの顔を見る」

インタビュー

今回は大阪急性期・総合医療センターの看護部長、丸尾明代様にインタビューをさせて頂きました。

丸尾看護部長の手腕と魅力に迫ります。

きっかけは資格をとりたいという気持ち

看護師を目指されたきっかけを教えていただけますか。

丸尾:母親の体が少し弱かったこともあり、幼い頃から看護師には興味がありました。

両親の希望もあり日赤を受験し、和歌山赤十字病院の付属看護専門学校に入学することになりました。

全寮制で親元を離れ、寮生活をしたことは非常に自分のために良かったと思います。

実習で印象に残るようなエピソードはありますか。

丸尾:最初に実習に行った時に、患者さんの病室になかなか一人で入れず、廊下に1、2時間立っていました。

先生に「自分で頑張りなさい」と指導を受け、自分で心を決めて行かなければなりませんでした。

そして意を決し患者さんのとこに行き、お話をしたところ、最後に「ありがとう」と言ってくださいました。

その一言がとても嬉しく、私にとって看護師を続けられる一言になったと思います。

卒業後、和歌山赤十字病院に入りました。

母が看護師長をされていた近所の方に「卒業した後はICUかオペ室を経験すると強いよ」とアドバイスを頂き、それを私に教えてくれたことが手術室看護師になったきっかけです。

良き仲間に囲まれて手術室でのスタート

手術室に配属されていかがでしたか。

丸尾:非常にやりがいがありました。

同期3人切磋琢磨しながら、非常に楽しく仕事をさせて頂きました。

手術室のスタッフの方も先輩の方も非常に良い方が多く、仕事が終わると飲みに連れて行って頂きました。

手術の準備中、抜けているところがあり、指摘を受けたのですが、「私じゃありません」と言うと、

「私じゃありませんじゃない。自分が準備したのではなくても手術に付くのはあなただから、責任を持って点検をしておくのがあなたの役割でしょう」と言われました。

細かいところまで社会人として、職業人として、一つ一つを先輩の方々に厳しく育てて頂きました。

手術室看護師として気を付けていたことは何ですか。

丸尾:言われる前に察知し、言われたときにはすぐに手渡すことです。

予測して動いていくというところが、すごく重要だと思います。

予測できる器具を2つ3つ持ち、「あっ、これ」と思った瞬間に迅速に渡せるといいと思います。

患者さんのリスクを最小限にしますので、阿吽の呼吸でいかに早く動くのかが重要です。

ただ業務的にこなすのではなく、やはり看護師として患者さんが入ってきてまた出ていくまでの不安の軽減や褥瘡を作らないことなど、手術室の看護を先輩に色々教えて頂き3年勤務しました。

救急で闘った19年間

そのあとの経緯を教えてください。

和歌山赤十字病院が救急診療科を始めるということで、当センターの医師と看護師長が講演に来られたことがありました。

その看護師長は私の卒業した和歌山赤十字病院付属看護専門学校の卒業生で、

その方のお話に惹きつけられるものがあり、当センターに移りました。

希望通り救急病棟に配属されてとてもやりがいはありましたが、一つ一つが闘いでした。本当に大変でした。

患者さんが一人運ばれてくると、「助けるぞ!」と一致団結したチームワークで仕事をしていました。

いかに勉強して早く動けるようになるかという点で勉強も大変でした。

また、患者さんのご家族への対応が一番重要になりますが、難しかったです。

看護師の一言でご家族の気持ちが大きく変わってしまうこともありますので、一番神経を遣ったところだと思います。

お子さんが運ばれてきた時は、やはりご家族の動揺の仕方が違います。

運ばれた時にそばに誰もいない場合は看護師がそばに寄り添い、できるだけ早くお身内の方やご家族の方に来て頂けるように努力しました。

救急にはどのくらい勤めましたか。

丸尾:19年勤務し、平成10年救急看護認定看護師資格も取得しました。

一般病棟で看護を経験したいと希望していましたが、「救急看護認定看護師教育課程に行かないか」とのお話がありました。

まだ認定看護師制度が出来立ての頃でしたので、認定看護師の役割を十分理解していませんでしたが、

学校に行ったことでとても視野が広がり、救急看護だけでなく、看護師としての考え方が随分変わりました。

10年間、救急に勤務しているので、どこか天狗になっていたのかもしれません。

しかし、救急看護認定看護師教育課程を受講し、何も出来ていなかったと気付かされ、もっと救急看護をしっかり行わなければと思いましたし、病棟だけでなく院内全体への働きかけも大切だと痛感しました。

その時はまだ救急看護認定看護師で管理職ではありませんでしたので、

実践の場における看護の質をどう高めていくかということに集中していました。

病棟では根拠のある看護を目指し、「なぜこの症状が出ているのか」

「病態生理を踏まえてみんなでどうしていくか考えよう」という勉強会やカンファレンスの機会を設けました。

心肺蘇生においては、院内でも、急変時の対応について講義したり、各病棟で模擬訓練をしたりと働きかけを行いました。

その結果、心肺蘇生に対しての意識が高まり、看護の質も変わったと思います。

訓練時には看護師だけではなく医師も入り、評価やアドバイスをしました。

看護師だけじゃなくチームで動くという雰囲気は、今のベースを作ることができたと思っています。

看護師長になられた時のお話を聞かせてください。

丸尾:認定看護師を取得した後に、看護師長の話を頂きましたが、救急病棟しか経験がないので、

看護師長になると同時に救急病棟の後送ベッドである一般病棟に移りました。

一般病棟では、明日入院される方が誰で、次は誰が退院してと、ベッドをコントロールしなければならないのですが、やり方が全く分かりませんでした。

また、どのように患者さんに向き合っていけばいいのかも分かりませんでした。

そのため、副師長、主任、それとスタッフにたくさん助けていただきました。

先輩の看護師長の方からも様々なご指導を頂きました。その中でも「毎日一人ひとりの患者さんのところを回る」という教えを大切に、看護師長になった時から取り組んできました。

患者さんのベッドサイドを回ることで、スタッフがどのような看護を提供しているのか、

患者さんやご家族の方の気持ちを知ることができました。私がスタッフに指示していることが浸透しているのかもわかります。

それが、看護管理者として一番大切にしないといけないことではないかと思いました。

行政から見る看護の世界

その後はどのようなキャリアを積まれたのでしょうか。

丸尾:看護師長をして6年経った時、3年間の任期で大阪府庁に派遣となりました。

大阪府下全体の「看護の質の向上」「看護職員の確保対策」に取り組んでいました。

看護の質を向上させるための政策を事務方と一緒に考え、専門職の知識を事務の方にお話をしながら、

今後の大阪府の看護職の教育や方向性を決めていく仕事でした。

また、それに関しての研修や体制を考え、予算を獲得する行政職です。

そして、看護学校の監査や、看護師、看護学生、看護学校に対しての関連と免許関係の仕事もありました。

最初は行政用語が分からず大変苦労しましたが、

社会全体からみた看護師の立ち位置や在り方が分かり、そういう意味では非常に視野が広がりました。

当時看護師長から副部長に昇格しての派遣でしたが、

大阪府庁に行って自分たちの仕事や役割は、すべて根拠法令に基づいていることを実感し、責任の重さを知りました。

3年経ってまたこちらの病院に戻られたのですか。

丸尾:副部長兼看護師長として、また救急病棟に戻りました。

救急病棟に戻って一番に行ったことは、夜間の緊急入院体制の変更です。

それまでは、外来を一次救急、二次救急という言葉を使っていたのですが、病院の方針で、「ER」という形を取るようになりました。

ERからの夜間の入院は、今までは空いている病棟に入る体制でしたが、

病棟看護師の負担が大きいなど、色々な問題がありましたので、「ER病棟」を作り、夜間の入院患者はすべてその病棟に入院するという体制にしました。

そして、2年後副部長専任となり、人事労務担当として看護管理室で2年間勤務しました。

それから昨年の4月看護部長となりました。

後編へ続く