vol.1に続き、東京医科歯科大学医学部附属病院の川﨑つま子看護部長のインタビューをお届けします。
vol.2では、赤十字病院での経験、管理職へ進むまでのお話を伺っています。ここでも欠かせないのはメンターの存在でした。
転職して知った医療システムのギャップ
その後また病院に就職されたわけですか?
川﨑:はい。その後結婚を割りと早くしましたので、子育てしつつも働き続けていくための支援体制を整える必要が出てきました。
夫の実家がある大宮に引っ越して、近くに住んで支援を受けながら今まで働き続けてこられました。
本当に感謝ですね。自分が働き続けていくことをストップするよりも支援してくれたわけですから。
サポートをどう得られるか、またそのための準備をどう整えていくかが大事だと思います。
それも大きいですね。共働き家庭が増えていますが、サポートしてくれる人やサービスなしにはやっていけませんね。新しい職場は大宮ということですか?
川﨑:はい。大宮赤十字病院、現さいたま赤十字病院に勤務しました。
国立病院時代は当時でも800床近くあったので、できるだけ規模の大きいところで組織を知りたいと思いました。
それはどういったところから?なかなか組織という視点にいきにくいと思うのですが。
川﨑:病院というところは1つの大きな組織ですが、医療や看護は基本的にはフロントにいる1人1人の資質にかかっていると思っていました。
結局ケアする人がどんなケアをするかによってその病院の評価が決まるんですよね。そのことは早い時期から思っていましたね。
よく組織のせいにする人がいますけどその気持ちが私にはなかったです。
目の前に居る人のケアをどう組み立てるか、どうすることが苦痛を和らげるかに関心が向いていましたね。その時々に出会った上司には感謝していますね。
大宮赤十字病院では病棟での勤務ですか?
川﨑:外科と泌尿器科の病棟に勤務していました。病院を初めて変わったわけですが、それは衝撃でしたね。
電車で30分くらいの距離しか離れていないのに、システムも使っている物品もまるで違うんです。
国立のときは薬剤師は薬剤師の業務、看護師は看護師の業務、きちっと整理されていた中で仕事をしていたんですね。
例えば薬は薬局で配薬カートにセッティングされた状態で病棟に運ばれてきて、私たちはそれを確認してから患者さんに与薬する。
それがここでは薬剤部から薬が運ばれてきて、私たちがセッティングしなければならなくて。
まるで小さな薬剤師になったようでした。
物品も、例えば浣腸で言うと、自分たちで浣腸液を作ってシリンジに吸ってネラトンカテーテルをつけて行うんです。
国立ではディスポの浣腸を使っていましたから、そのギャップに悩みましたね。
同じ行為をするのでもこんなに違うのだと。
でもそこでたくさん看護師たちががんばっている様子を見て、それはそれで学びでしたね。
メンターとの出会いから管理職の道へ
川﨑:そこから赤十字独特の世界に入りました。赤十字でキャリアアップしていくには幹部看護師研修所に行かなければならない仕組みだとわかり、3歳の子供を置いて1年間全寮制の研修所に行ったんです。
それまでスタッフとして働いていましたが、私はそこで初めて赤十字について勉強をしたわけです。
設置主体の歴史や理念、考え方などが看護の枠組みにも影響するんだと理解しました。
いろいろ学びを進めていくと、「大切にしているものをきちんと学んで医療を行うことの大切さ」があるとわかり、学んでいない私にとってはいい勉強になりましたね。
それが私の基本的価値観のベースになっているのは確かですね。
ジャン・S・ピクテ著「赤十字の諸原則」という私のバイブルがあるんですけど、それを読み進めていくと、判断に迷うときが出た時に「目の前にいる人にとって一番いいことをしなさい」というゴールデンルールが書いてあって、私はそれに惚れ込みましたね。
今でもいろいろ迷うことはありますが「目の前にいる人」というのを大切にして、後付けではいろんなことが言えるけど、その時精一杯した判断ならいいよ。そう言ってあげられますね。
幹部看護師研修所に行ったということは、いずれ管理職への道を考えてのことだったのですか?
川﨑:そうですね。すごく管理に興味がありましたね。そのきっかけは、メンターのもう1人のある師長さんとの出会いなんです。
私は日々一生懸命目の前の患者さんにケアをしていて、患者さんが喜ぶ姿にやりがいを感じていました。
師長さんがラウンドするたびに「今日も川﨑さんは勤務しているのかね」と聞くんだそうです。
そしたら師長さんが私を呼んで「私が作りたい病棟はたった1人の人がスペシャルな仕事をするよりも、多くの人が一定の質の看護をしてもらうことが希望なのよ」と言われて。
さらに「あなたはちゃんとレスポンスもあって評価も受けて気持ちいいかもしれないけれど、あなたが夏休みに入ってしまったらその患者さんは何日間か待つようになる。そういうことを私は望んでないの」と言われて、そこから俄然頭の中がマネジメントに変わりましたね。
それまでも薄々はわかっていたんですよ。でもその一言が私を変えましたね。
頑張る人がいるのもいいと思うんですけど、それだけでとどめるのではなくて、そのことを通して全体的な底上げをはかっていくことが必要ですね。
そこから後輩に対しても丁寧に関わるようになった気がしますね。
ご自身の中でも変化が起こったということですね。
川﨑:後輩を育てようとか後輩と一緒に何かをしよう、そんな風に思いました。
自分ができるためのマニュアルを作るのではなくて、多くの人たちが理解してできるマニュアルにしよう、というように視点がだいぶ変わりましたね。
人によってはそこで「評価されない」と思ってしまう人もいると思うのですが、納得できた理由はどんなところにあったのでしょう?
川﨑:私はその師長さんを尊敬していて、目標にする人だったんです。
師長さんは出勤してくると申し送りの前に病棟を全部ラウンドして、送られる前に患者さんのこと把握しているんですね。
例えば湯たんぽがぬるくなっていたり、ガーゼが落ちていたりすると、それを指摘するのではなく、サッさと片付けるんです。
それがわたしは悔しくて悔しくてね。この師長さんを越えたいという思いがありました。
そんな師長さんのアドバイスだから聞けたんだと思います。
それは非常に大きいですね。
川﨑:実はその師長さんが幹部研修所に行くことも推薦してくれたんです。
赤十字の基礎教育も受けていない、外から来た私を行かせるという判断をしてくれた。本当にありがたかったですね。
今でもメンターとして慕っています。メンターの存在は大きいですし、働く上で重要だと思います。
研修所での1年を終えていよいよ管理職として働くのですね。
川﨑:実はそのあと、教員になったんです。さいたま赤十字病院附属専門学校の教員を8年間やりました。
研修所のカリキュラムは教員資格をとれるものも含まれていて。産休明けに勤務したのですが、ここでの経験もよかったですね。
そこで3人目のメンターに出会うんですけども。
外部講師で来ていた人間関係論の先生で「積極的傾聴法」やロヂャースのカウンセリング、「今ここで」「今この瞬間」の大切さについて教わりましたね。
その先生の教えも自分のマネジメントにすごく活きています。混乱を整理してくださる存在でもあります。
最強のメンターが3人もいると心強いですね。
東京医科歯科大学医学部附属病院に関する記事はコチラから
・インタビュー#10川﨑つま子様(東京医科歯科大学医学部附属病院様)vol.1
・インタビュー#10川﨑つま子様(東京医科歯科大学医学部附属病院様)vol.3
・インタビュー#10川﨑つま子様(東京医科歯科大学医学部附属病院様)vol.4
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