今回は東京臨海病院の髙草木 伸子看護部長にインタビューさせて頂きました。
感染管理認定看護師の資格もお持ちでいらっしゃる髙草木看護部長の手腕に迫ります。
看護師として働く姉の姿を見て、看護師に
看護部長が看護師になろうと思われた動機について教えて頂けますか。
髙草木:ずいぶん昔の話になりますが、私が中学生の頃の事になります。
私には、6歳離れた姉がいまして、姉も同じ看護師をしています。
姉が楽しそうに働いている姿を見て、私も看護師になりたいと思いました。
それでは、高校の進路を決める時には、看護師になろうと決めていらっしゃったのですね。
髙草木:そうですね、高校は衛生看護科に進みました。
准看護師の免許を取った後、桐生高等看護学院に進学し、働きながら正看護師の免許を取得しました。
あの頃は今のように看護大学はなく付属の専門学校も数少なく進路は限られ、現在のように多様な進路選択はできませんでした。
看護学校の代表として研究発表を
学生時代は多忙だったと思いますが、いかがでしたか。
髙草木:勉強と仕事の両立というのは中々難しかったですけど、クラスメートは皆同じ境遇で、それが普通だったのであまり大変という印象はありませんでした。
看護学生の実習の中で印象に残っているエピソードはございますか。
髙草木:内科実習で糖尿病の患者さんを受け持ち、看護計画を立てながら、指導をさせていただきました。
実習を通して、受け持ち患者さんの病態や治療内容、インシュリン等の薬剤の作用・副作用や解剖生理などが少しずつ繋がって考えられるようになると、患者さんの病状が良くなっていることが実感でき、実習が楽しく思えるようになりました。
そして、県内の看護学生の研究発表会に学校の代表として症例発表もさせていただきました。
急性期で働く楽しさ
看護学校を卒業されて、次に働いた病院の事をお聞かせいただけますでしょうか。
髙草木:看護学校卒業後は、学生時代から勤務していた地元群馬のクリニックに一年間勤め、その後、東京の大学付属病院に就職しました。
東京へいらっしゃったきっかけを教えて頂けますか。
髙草木:本当は姉と同じ地方の大学病院で働きたかったのですが、東京都八王子市に大学付属病院が開設するという情報があり、応募しました。
そして、東京医科大学八王子医療センターに開院1ヶ月月前に入職しました。
そこには全国から看護師が集まり、開院の準備をしていました。
私はほとんど一年生と同じでしたので、何を行ったかあまり覚えていませんが、物品の整理・収納や患者さんの受け入れのためのベッドメーキング、書類の整備などを行ったように記憶しています。
最初はクリニックからスタートしたので、全く違う世界に飛び込みました。
ですが、戸惑いというよりも、急性期の病院で働く楽しさの方が大きかったです。
大学病院では、どちらに配属をされたのでしょうか。
髙草木:開院当初は1病棟だけオープンし、外科と内科の混合病棟でした。
それから、徐々に病棟をオープンさせていくという状況で、私は一年の経験はありましたが、実践経験はほとんどなかったので必死に勉強しました。
今思うと大変というよりも夢をもって働く楽しさを実感していたました。
大学病院の最初の年で印象に残っていることはありますか。
髙草木:新卒者が多かったこともあり、卒業後二年目の私と一年生の二人夜勤が大変でした。
48床の混合病棟で、重症患者も多くモニターを見ながら緊急入院の受け入れや一年生のフォローをしなければいけない状況でした。
今では考えられないと思いますが、その時は怖さも顧みず無我夢中でした。
移植外科では臨機応変に取り組む毎日を
こちらの病院ではどのような部署でご経験をされたのでしょうか。
髙草木:徐々に病棟が開きましたので、脳神経外科や循環器内科、呼吸器内科、小児科などいろいろな部署を経験し、次に移植外科という病棟で主に腎臓移植に関わらせていただきました。
そこには約13年間勤務しました。
移植外科ですと、勤務時間も不規則で大変だったのではないでしょうか。
髙草木:東京医科大学八王子医療センターは死体腎移植を積極的に行っていました。
ですので私たち看護師は、いつ腎臓提供者(ドナー)が現れても、移植を受ける患者(レシピエント)さんが入院できるよう準備しておく必要がありました。
生体腎移植でしたら十分に時間をかけて計画的に準備ができますが、死体腎移植の場合は、ドナーとなる脳死の患者さんが現れて脳死判定が終わったら家族の同意を得て、直ちに移植手術の準備を始めなくてはなりません。
レシピエントが入院してから数時間で手術になるため、移植コーディネーターを中心に、医師、看護師、他部門との連携は必須でした。
その頃はまだチーム医療という言葉は一般的ではありませんでしたが、当時からチーム医療を行っていました。
そして、常に患者さんが不利益にならないよう臨機応変に行動する必要がありました。
1980年代は、US腎移植といってアメリカ人からの腎提供が頻繁に行われていました。
多い時は1週間に4~5人を受け入れた時があり、ICU、手術室、透析室スタッフと連携し不眠不休で治療にあたりました。
一人じゃない、仲間がいたからできた
その頃は師長になられていたのでしょうか。
髙草木:臨床指導者、主任を経験して、移植外科病棟で師長になりました。
責任も増えてくると思いますが、戸惑いなどはありましたでしょうか。
髙草木:若いスタッフが多く、自分が育った時代とは変わっていたので教育が大変でした。
腎臓移植の病棟は特殊だったので、どのように関わったら良いか主任と相談をしながら教育をしました。
また医師も協力的で、勉強会や研修会、学会などに一緒に参加し、とてもまとまった職場でした。
師長になりませんか、という声をかけて頂いた時は、どういう心境でしたか。
髙草木:私に師長が務まるのだろうか、という不安でいっぱいでした。
その時に看護部長が、「誰でも1から始めるので、一人じゃ無い」ということを言っていただきました。
同期も一緒に師長になったので、一人ではなかったので心強かったです。
みんなで支えあいながら行ってきたのですね
髙草木:やはり病院を一から作りあげてきましたので、自分の病院だという意識は強く持っていたと思います。
休職し、アメリカ留学で感じた日本との違い
師長さんとして、しばらくは続けられたのでしょうか。
髙草木:師長をしている間に、少し疲れてしまいまして、今で言うバーンアウトだと思います。
看護部長に相談をしましたら、病院に籍を置きながら、異例でしたが看護部長の配慮で休職をさせて頂き、アメリカに語学留学しました。そして、アリゾナ大学のELSに入学し、学期間の休みを利用してUMC(University Medical Center)での研修や色々な病院を見学させていただきました。
帰ってくるところがあるということで、安心して行くことが出来たのではないかと思います。
日本とは違う海外の病院事情もあると思いますが、何か違いはありましたでしょうか。
髙草木:今から約二十年前になります。
その時、すでにアメリカでは診療看護師や専門看護師の役割をもった看護師がいました。
スペシャリストの役割分担がはっきりしていて日本とは違いました。
また、入院している患者さんの重症度も違いますし、在院日数も短く例えば心臓移植をして、1週間から10日で退院をしていました。
本当に信じられないくらいでした。
手術を行う患者さんも手術当日の朝に入院し、手術室から搬送専門の担当者が病棟まで患者さんを迎えに来ます。
手術内容にもよりますが、2、3日で退院していました。
その後は、紹介をして頂いたクリニックに通院するなど、医療システムが日本とは違いました。
私が実習をさせて頂いた病院ではチームナーシングを取り入れていましたが、一人ひとりが自律しているためなのか日本のチームナーシングとは違う印象を受けました。
日本と海外のどちらが良いのでしょうか。
髙草木:日本は皆保険制度のおかげで安心して病院に入院できるというのが良いと思います。
アメリカでは、経済面や加入している保険によって受診できる病院が決まってしまうようでした。
移植を行う患者やその家族のケアの大切さ
病院に戻られてからは、どのような看護業務に従事されたのでしょうか。
髙草木:日本に帰国をしてからは、集中治療部の師長として勤務しました。
そこは、ICU・CCUと三次救急を受け入れており、忙しい部署で看護師も70名近く勤務していたので、大変でした。
病棟での移植の患者さんの場合は、レシピエント側の視点で考えていましたが、救急救命の現場では、命を救うための懸命な治療が行われ、その最悪な結果が移植医療に繋がっていることを改めて考えさせられました。
これまでとは全く違う提供する側の家族の視点で関わる辛い立場でしたが、良い経験をさせていただきました。
移植を行う患者やそのご家族にどのような対応をなされていたのでしょうか。
髙草木:今まで元気でいらした方が、急に何らかの原因で「体は死んでいます。」という診断を受けてしまいます。
それを家族が受け入れ、決断するまでのプロセスを、きちんと丁寧に説明し対応をしていかなければなりません。
家族が後悔をしないような対応をすることが、治療、看護というところでとても重要な役割を私たち看護師は担っていると感じました。
また、一生懸命に看護した患者さんが亡くなることを受け入れる看護師のケアも必要でした。
看護師の役割が大切になるのですね。
髙草木:移植コーディネーターや移植をする医師、救急救命に関わる医師などが連携して家族に関わらないと、当然同意も得られません。
また、臓器提供した後の家族の心のケアが必要になってくるのが移植医療だと思いました。
特に患者さんや家族のいちばん近いところにいる看護師の役割はとても重要だと実感しました。
後編に続く
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No.77 髙草木 伸子様(東京臨海病院)後編「患者さんが話したいことをキャッチできる心を」