今回はあがの市民病院の辻夏子看護部長にインタビューさせて頂きました。
辻看護部長の手腕に迫ります。
看護師として輝く母の姿
看護師になろうと思った理由を教えて頂けますか。
辻:母が看護師だったのですが、私が子供のころ遊んでいるとさっそうと自宅に帰ってくる母親の姿を子どもながらに素敵に思っていました。
私にとっては母=看護師というイメージが強いのですが、父は父なりに、また祖母も母をサポートしてくれていましたので、母親は生き生きと働けたのだと思います。母も家族には感謝していました。
母は国立病院の看護師だったのですが、そこの病院は西洋医学と東洋医学のどちらも取り入れていて、母も実際に中国に行って針治療の研修を受けていたのを覚えています。
そのため、母が家にいないときも多くありましたが、子ども心に寂しいけれども母の意欲的な姿を嬉しく捉えている自分もあり、自然に看護師になりたいと思ったのだと考えています。
母親からの言葉
お母様の背中をみて小さい頃から看護師を目指されていたのでしょうか。
辻:今振り返ってみると、小さい頃はそのように考えていたのだと思いますが、高校生の頃は実はあまり深く考えていませんでした。
単純に親しい友人と一緒に大学に進みたいという考えで受験し、不合格になってしまいました。
そのときに母親から「行きたいと思って行くのでないのなら、もう少し考えなさい」と言われ、当時私の実家のある熊本では、他県の看護学校を受験できるシステムがあったため受験し最終的に看護学校へ進むことになりました。
今考えてみると、神様がそのように仕向けてくださったのかなと感じています。
看護師の責任と遣り甲斐
看護学校で思い出に残るエピソードはございますか。
辻:とにかくホームシックが人一倍強かったためいつも屋上に行って「お父さん、お母さん」と泣いていました。
また、看護学生のときに胃癌の終末期の患者様を受け持たせて頂いたのですが、その方はパイロットをされていた方で現役時代はとても忙しくお仕事をされ、ほとんど自宅に帰ることもできなかったそうです。
そのときに同じ寮で生活をしていた学生の受け持ち患者様がお誕生日で、誕生日カードをプレゼントしたいと話していたため、私も何かメッセージを送りたいと考えました。
そして「普段はお忙しくてご自宅に帰れなくても、入院されたことでご家族とゆっくりと向き合い話す時間を持つことができたため、良かったこともありますね」というメッセージカードを送ると、凛とした言葉数の少ない患者様だけでなく奥様と娘様も一緒に涙を流されていました。
当時は学生でしたが、看護師は人の心の琴線に触れる責任のある仕事なのだと思いました。
拙い学生のメッセージに涙を流してくださいました。その涙の意味を学生の私は重く感じたものでした。患者さんや家族の反応を見て、はっと気付かされたこともたくさんあります。
深く考えない自分を脱却したい
ホームシックが強かったとのことですが、その後は何か壁に当ったことはございましたか。
辻:私は若い頃から「天然ですよね」と言われることがよくありました。可愛がっていただいていたのだと解釈しております。
ただ、私自身、あまり物事を深く考えないところは自覚しておりましたので、看護師という職業をしていく中で、そんな自分から脱却したい思いばかりが募り、がんじがらめになっていた時期がございました。しかし、少しずつ経験を積む中で「私が天然と言われるのは人の話をちゃんと聞かないからだ」と気づきました。
今でも、自分を振り返り気づきと修正を重ねております。
共感し理解することの大切さ
それらの気付きからご自身が取り組まれたことはございますか。
辻:私はあるきっかけから、大学院に進みました。「看護とは」ということを純粋に深く考える機会がありました。
研究論文では、乳がんの妻を亡くした夫の喪失感と健康観について研究しました。
たくさんの病院に行きましたが、人の心の琴線に触れることなので、簡単にはインタビューすることはできませんでした。しかし、その中でも4人の方のお話を聞くことができました。
対象は、40代から60代の男性です。日本人の男性には独特の男の沽券があり、人によっては妻を亡くした寂しさを他人には言うまいと、自分の心に封じこめていらっしゃる方もいました。でも、夜になると電気を消して、妻を思い出す時間を何年経っても作っているとおっしゃっていました。
そしてある方は、「あなたに本当に言ってもいいですか」とおっしゃり、私が「どうぞ思いの丈をお話しください」と言うと、妻への愛情と妻を亡くした喪失感を怒涛のごとく私にぶつけてこられました。
私はそのときに、ご家族に話せる場を提供できたと嬉しく感じました。そして「看護師で良かった」と思いました。
お話しを聞き、共感し理解できることは本当に大切なことだと感じたため、今は管理者としてそのことを伝えていかなければならないと考えています。
インタビューされた4人の方々はそれぞれ違った思いを持っていらっしゃったのでしょうか。
辻:インタビューした方々は40歳代後半から60歳代の方で、生活スタイルは様々でした。
ある方は、その後新しい大切なパートナーの方と一緒に暮らしているようですが、「妻を忘れたことは一度もない」と話していました。
また、自宅周辺が妻と一緒に歩いた散歩道など思い出に囲まれ過ぎていることで立ち直れないからと引越しをされた方もいらっしゃいました。しかし、今も時々一人でその地へ行き、妻との思い出に浸っているという方もいらっしゃいました。
インタビューした方々に共通していたことは、今はそれぞれ支えてくれるパートナーやご家族、友人、お仕事など様々ありますが、決して妻のことは「忘れない、忘れたくない」という共通のお気持ちがありました。
日々の看護の中でそのような気付きを得ることに難しさはございますか。
辻:単純に、新しいパートナーのことだけを見て、奥様のことを忘れているという浅はかな考えに陥りやすいのですが、そうではなく何か理由がありきちんとお聞きしなければ、本心は見えてこないと思いました。
その方の苦悩や大切にしていることなどは、表面だけの関わりでは分からないものです。
どのように看護部長の道へ進まれたのでしょうか。
辻:以前、当院は公立病院だったのですが、医師の大量退職などの状況となり、経営が立ち行かなくなりました。
そこで、厚生連の力を借りながら運営し、公設民営という形で、今でも病院が成り立っています。
厚生連になったことで、他の16病院の皆様と交流することができ、悩み相談や研修会の開催、教育委員会を開催するなどたくさんの情報交換や検討の場が設けられ参加することができます。
私は一昨年、新潟県の村上総合病院というところに1年間転勤し、当院に戻ってきてから看護部長になりました。
苦手なことにも飛び込んでいく
看護部長になられるまでにご苦労されたことはございますか。
辻:当時、40歳代で主任看護師をしていたときに、自分をもっと鍛えたいという思いから大学院へ進みました。
そのあと管理の道に進みますが、勿論平坦な道ではなく自分自身が管理者として不得手な部分にも否が応でも入っていかなければなりませんでした。
しかし、自分の欠点に気が付き修正し、自分自身が成長できる機会でもありました。
私は本当に恥ずかしいことなのですが、物事を深く考えるということに疎かったと思います。
しかし、自分を振り返り、自分の修正すべき点に気付くことで、いくらか直すことはできるということがわかりました。そうすると、自分の変化を自分自身が一番感じ取ることができます。
管理者は様々な視点を持って考え判断していくことが求められてきます。ですから、例えばグループワークが苦手だからとしり込みしていては、前には進めませんよね。
苦手と言わず、飛び込む姿勢が必要になります。
看護管理者とは良い所も悪い所も丸裸にされ評価されるものだと、ひしひしと感じていますが、だからこそ、苦手な事にも飛び込んでいき、自分も皆と共に成長していけるのだと思います。
選択を迷ったときには
苦手なことを克服することはとても大変だと思いますが、どのように乗り越えられたのでしょうか。
辻:それは苦い経験があるからかもしれません。
私がいつも思い出すのは、小学生のときのマラソン大会で横腹が痛くなって途中で歩き出したことです。
他にもそのような方がいたのですが、また途中で走り始め頑張っているのに、私は自分自身に負けてしまい最後まで歩いて終えてしまいました。
しかし、待っていた先生や生徒が拍手で迎えてくれたことで、本当に申し訳ない気持ちになり、人の好意を踏みにじってしまったように感じました。今でも時々思い出します。苦い経験です。
何かの選択に迷ったときには、たまたまテレビで拝見した江原啓之さんの「卒業なのか、逃げなのか」という言葉を思い出しています。選択を迷った時の私の判断指標になっています。
「自分が辞めたいのは、卒業ですか、逃げですか」と自問するようにしています。そうすると、自ずと答えが見えてきます。
看護部長さんのご経験がスタッフの方々にも役立っているのですね。
辻:私自身は、特に若いころはすぐに落ち込むことが多く、自己嫌悪の塊だったように思います。
しかし、このままではいけないという気持ちになったことは大切なことだと思っています。弱い自分だったからこそ、スタッフの気持ちも理解できますし、自分の経験を基にI(愛)メッセージ伝えることができる、と感じています。その点は私の強みになっているかもしれません。
後編へ続く
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No. 68 辻 夏子様 (あがの市民病院) 後編:本質を考え、患者様の思いを大切にする