No. 60 井澤照美様 (山形徳洲会病院) 前編:良い出会いがあったから、今がある

インタビュー

今回は山形徳洲会病院の井澤照美看護部長にインタビューさせて頂きました。

井澤看護部長の手腕に迫ります。

「あなたは1人だけの看護師ではないという事を学んだ」

看護師になろうと思われた動機はどのようなものでしょう。

井澤:うちの父が病弱で、小さい時から入退院を繰り返す事があり、看護婦さんは身近な存在でした。また、自分はそんなに思っていませんでしたが、姉が看護師を志望していました。

しかし、姉は長女で家にいるもの、外に出るという事は家族の中では反対されていましたので、次女の私が長女の思いを継ぐ形になった事、また父が病弱でお見舞いに行く度に父の苦しい姿も見ていて、介護する看護師の姿がとても素晴らしく見えていて、看護師になりたいという気持ちが自然に生まれてきたような気がします。

看護学校はどのようにして選ばれましたか。

井澤:家から離れた所で、自分で出来る事はどれ位なのかと思っていて、1人立ちしたいという思いも前からあり、家から遠い東京に出ていきました。

そして、経済的にも親に出来るだけ負担をかけない所を選ぼうと思っていたので、国立系の学校を選択しました。

学生生活はどうでしたか。

井澤:はい、全寮制で3年間寮生活をしました。

楽しかったことだけで、つらい思い出はあまり覚えていないのですが、家に手紙を書いていて、家に早く帰りたいという思いや、寮生活での食事がそれまでとは違っていて、遅くなれば食事も無くなってしまう事があったという事を書いていたようで、それを聞いていた母親は、みそ汁の豆腐が食べられなかったと話してくれました。辛かったら、早く帰ってきたら良いのに、とは思っていた様です。

親はどうやって生活をしているのかという事で、心配だったのだろうかと思います。

学生時代に何か思い出に残るようなエピソードはありますか。

井澤:私は看護学校に入るまでに、人が亡くなるという場面にあった事がなかったのですが、実習の中でそういう場面に遭遇した事がありました。

血液疾患の患者さんで、20歳前の方でとても若い方でした。

その方が亡くなる所に遭遇した事がショックで、先生方が思いっきり心臓マッサージをする光景が、患者さんが辛そうに見えて、泣きました。見てられずに泣きながら、倉庫に閉じこもりました。その日は一日中実習にならず、泣きました。「今は悲しいでしょうけど、他の患者さんが待っているよ。」と指導者から言われたけれど、辛かったですね。

看護の中では、死や完治できないという場面と向き合う事がありますが、その中で乗りきるためのエネルギーや、その支えとなった物は何かありましたか。

井澤:亡くなった方の事、また指導者から「あなたは患者さん1人だけの看護師ではないよ」という言葉がすごく響いたと今も思います。

看護師という仕事は1人の患者さんだけではなく、病院で働く以上は多くの患者さんへと看護を提供しなければならないという教えが、自分を次へと向かう事になったと思いますし、先輩や指導者から言ってもらえた言葉が良かったと思います。

「患者さんから学ぶ事が沢山あった」

学校を卒業されて、就職されるにあたり、どのようにして病院を選ばれましたか。

井澤:まず、学校生活について話した中でも言いましたが、私は都会で生活する人ではないと思いました。

都会は空気が澱んでいるような気がして、その中では私は生活できないと思い、澄み切った空気の中でしか私は生きられないと思ったので山形に帰ってきました。

看護学校卒業の時に「私は山形の星になる」と言って帰ったことを覚えています。

病院を選ぶ時に、私は離島に行きたい気持ちがありました。

しかし、離島で看護師をするには、色々と勉強をしないと出来ないという事を先輩方から聞いていたので、最初は勉強出来る環境で仕事をして、その後5年くらいしてから離島に移ろうかと、自分では最初は思っていました。

そう思い、山形大学の方で勤務をしました。

最初は何科にご勤務されたのでしょうか。

井澤:何かの縁かと思いますが、血液・神経・内分泌内科でした。

最初に辛い体験や自分の看護の基本を学んだ部署で、新たに仕事を始める事になりました。

また、血液内科だけでなく、神経内科と内分泌の病棟でもありましたが、私はそちらの方にも縁があるのだと思いました。

新人時代の1年間に何かエピソードなど、思い出す事はありますか。

井澤:1年目は色々な事が分からず、戸惑いました。

辛いという思いがある中で先輩の方に話して、相談する事もしました。

また本当に患者さんも良い方ばかりで、白血病の方でしたがとてもやさしい良い方で、私の話を聞いてくれました。逆ですよね。

個室だったこともあり色々と話をして、患者さんから「いろいろな事はあるけど、私たちは看護師さんに助けられている」と言っていただいて、私の悩みや嫌なことを話している場合ではないと思った時には自分を恥ずかしく感じました。

色々な患者さんがいて接する事で、病気をしているからここに来ているというだけの、私よりも人生経験の深い方々から色々な人生を語ってくださることから学ぶことは沢山ありました。

2年目や3年目にはリーダーをする事や、後輩が出来るという形になられましたか。

井澤:やはり2年目になると、新しい1年生が入ってきて、しっかりしないといけないと大先輩に言われました。

その中でも、出来ない自分がいて、後輩の方ができる事もあったので、焦りましたしどうとでもなれという気持ちもありました。

しかし3年目、4年目となって、結婚もする中でその時は看護から少し離れたいと思っていたのかもしれません。

結婚してからは、結局また職場に戻ったので、私はやはり看護が好きだという事を感じました。

「良い出会いがあったから、今がある」

結婚された時はお仕事を一旦お辞めになられましたか。

井澤:いいえ、産前産後の休暇だけでした。

しかし、そこでまた職場が変わり手術室に移りました。

内科から手術室に変わるとなった中で、内科の先輩も心配して見に来てくださるので、そういう時代でいい先輩でした。「泣かされていないか、メスでも投げられているのではないか」と言って、来てくださって、「もう大丈夫だな」と言ってくださりながら見ていてくださいました。

同じ看護でも、朝からの動きも全く違う部署になり戸惑い等はありましたか。

井澤:全然違いましたが、私は手術室がとても好きでした。

すぐに慣れていき、とても楽しいところだと思う事が出来ました。

そこの上司がまた良い師長で、私が出来る所や出来る事を見つけてくださりました。

例えば、内科では看護記録がすごく長けていて、その病棟は最先端をいく看護記録をしていた事もあって、手術室でもその事をやってみてはどうかと言ってくださりました。

自分の出来る所を見つけてもらい出来る事をさせてもらえる、そういう職場が楽しく仕事が出来る所になると思いました。

手術室で記録を始めるその手段は、前に内科で行っていた、一歩一歩進める事を手術室でもやることが出来ました。

私は先輩や友人、患者さんにすごく恵まれているのだと思います。

山形大学であれば、手術件数が多く、全科が揃っているので、覚える範囲も多かったのではないでしょうか。

井澤:そうですね。その中で教育熱心で、教育担当の者がいた事もあって、新しい仲間が増え、一緒に教育指導の方にも力を注ぐことができました。

新人の指導などにも進む事が出来て、やりたいことを次々にやっていく事が出来る状況を作ってもらっていました。

最初の内科の師長さんが自分のいいところをほんの少し褒めてくれたことが自信となって、認めてくれたんだと思い、次に部署でも自分の出来る所を見つけ、引き出してくださったので、自分で言うのもなんですが、本当に自分は順調に成長することができたのだと思います。

手術室の後はどのような経験を積まれましたか。

井澤:手術室の後は、外科に2年、内科に2年行きました。

その後に自分の人生の方向性の決め手となる上司に出会います。

今度は材料部という部署に移りました。

資材管理から資材関係の収支といった事を学ぶ事が出来たのですが、今までにない管理を学ぶには、良かったと思います。

後輩も良い人で五感が優れていて、その中で様々な器械や器具に対する新しい発想があり、業者の方が驚くほどで、その中でやっていく事が出来ました。

そうすると、また仕事が楽しくなるのです。

業者との関わりなどもあって、今までの病棟看護師と患者、医師との関係だけではなく、今後は業者や他の機器メンテナンスといった部分での、多くの方との関わりも出てくるようになりました。

ほかの部署とのやり取りなどが多くなったわけですか。

井澤:そうです、そしてまた良い業者さんと出会いました。

物の購入の申請等の細かい所は、私たちが普段関わらなければ分からない事で、私たちは使うだけの所ですが、購入するにはこういった種類の物が必要で、このような手続きをしてくださいという所まで、事細かに教えてもらいました。

本当に物腰の低い方で、この間、久々にお会いした時には部長になられていました。

やはり、細やかに仕事ができる方は偉くなっていかれるのだと思いました。

やはり良い出会いが常におありになったという事でしょうか。

井澤:今の病院に来たきっかけも、先ほど話した材料部で出会った師長さんが、部長さんになられてその後退職、現在の病院の部長さんになられていて、その部長さんから声をかけていただいたのです。

私はすごく尊敬していた部長さんだったので、二つ返事で「行きます」と言って、どういう所か知らないままに、この徳洲会という所に来ました。

普通は例えば病院はどんな病院かとか、給料はどの程度かといった事などをしっかりと調べて選ぶのでしょうが、私はその部長さんがおられたので行きますという感じでした。

しかし、来てよかったと思います。

後編へ続く

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