今回は茨城西南医療センター病院の宮本留美子副院長にインタビューさせて頂きました。
看護部長を兼任し看護部をまとめる、宮本副院長の手腕に迫ります。
看護師ほど素晴らしい仕事はない
いつ頃看護師になろう、と決められたのでしょうか。
宮本:8歳の頃に決めました。
というのも、小さい頃に体が弱くて入退院を繰り返して居ました。
その当時は親が付き添うのが当たり前の時代でしたが、それも叶わない状態でした。
ですが、その時にお世話になった看護師達がとても優しくしてくれた記憶があり、看護師になろうと思いました。
看護師は医者とは異なり、「全人的」に患者さんを看ることができ、きちんと向き合うことができます。
親には反対されましたが、看護師ほど素晴らしい仕事はありませんし、なって良かったと思います。
人の人生に関わって、尚且つ、その人らしく生きることを支えてあげられる職業ですから。
看護師になられてから、印象に残っているエピソードはございますか。
宮本:私はこれまで殆ど全ての科を経験して来ました。
その科その科で出会って来た患者さんのことが、やはり記憶に残っています。
泌尿器科では前立腺癌が全身の骨に転移している方。
痛みがあるので疼痛コントロールに麻薬を使うのですが、「年中ドロドロしている。」「痛くはないけれど、女房にも話ができない。息子にもこの後の事を伝えられない。」と仰いました。
その話を受けて、主治医にも確認をとり薬の調整を行い、ご家族と色々な事を話す時間を作ることができました。
この方は亡くなられましたが、49日が過ぎた頃にご本人からお手紙を頂きました。
「生前ありがとう」「出会えて、色々な事が出来て本当に良かった」と。
睾丸癌の若い患者さんが亡くなる直前に、本人の希望を叶えるためにスタッフと一緒に、初めてのディズニーランドに行くこともありました。
小児科では、学生時代に受け持った重症心身障害児と10数年ぶりに再会したこともあります。
もう17、18歳で体も大きくなっていましたが、ある日突然私に負ぶさって「あ!」と言うのです。
お父様にしかやった事がない事だったらしく、見ていたお母様も驚かれていました。
きっと「歩け」なのだな、と思い少し負ぶって廊下を歩いたりもしましたが、その次の日には亡くなられていました。
彼なりの「さようなら」だったのではないかと思います。
そういう思い出が沢山あります。
部長室に乗り込んだ新人時代
新人の頃の思い出は何かございますか。
宮本:就職して半年ほどした頃、直接看護部長室へ乗り込んでいった事があります。
当時は誰でも2、3ヶ月入院して、病気があれば家にも戻れない時代でした。
何ヶ月も頭を洗わないことも普通でした。
ただ私はどうしても頭を洗ってあげたい患者さんが居て、洗髪用の物品も揃っていなかったので、新聞紙とゴムシーツでケリーパッドを自作して洗ったのです。
勿論他の看護師には怒られましたが、「物品が無いから誰もやらないんだ」と、看護部長に買ってもらうように直談判をしに行きました。
当時の看護部長は軍人上がりで厳しい方でしたが、其の後に洗髪車と清拭車を揃えてくれました。
どうしたら後輩を守って上げられるのか
管理職を目指すきっかけは何かございましたか。
宮本:私はあまり上を目指そうとは考えておらず、患者さんの側に居たいと思う方でした。
それでも26歳くらいの時に、私の後に就職して来た看護学校の後輩達を見ていて、「どうしたら後輩を守ってあげられるのか」と考える事がありました。
そしてその答えが知識と地位だという事に気付いて、そこからは主任を目指して勉強のため彼方此方に行きました。
いつ頃主任になられたのでしょうか。
宮本:主任には30歳の時になりました。
気乗りしない時もありましたが、尊敬している看護部長の定年まで後1年しかない、と言う事を部長本人から告げられたことで主任になると決めました。
「私が見ていてあげられるのは、あと1年だよ」と言われたのです。
主任に就いた後にも色々な事柄で役を降りたくなることもありましたが、其の言葉
があったのでやり通す事ができました。
その後すぐに師長をご経験されたのでしょうか。
宮本:師長になったのは34歳くらいです。
もともと、主任になる前の主幹という役を1つ抜かして主任になりましたので早いのです。
所謂飛び級をしているので、大変といえば大変でしたが、自分もやりたい看護ができるし、人にもさせてあげられるということを実感しました。
私を含め、皆やりたいことは何かしらあるはずです。
それでも地位がないと、したいことは出来づらいですし、やらせてあげることもできません。
やらせてみて、初めて出来ることと出来ない事がわかります。
実際やらせてみると、皆色々な結果を残してくれています。
後編へ続く
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No. 51 宮本留美子様(茨城西南医療センター病院)後編「やろうとする意思」