今回は、千葉県済生会習志野病院副院長の内山弘子様へインタビューさせて頂きました。
教員志望から看護師志望へ。葛藤しながらも実感した看護師のやりがい
副院長が看護師になろうと思われた理由や動機について教えていただけますでしょうか。
内山:女性でも専門職を身に付けて自立した職業を選ぼうと思い、看護師を選びました。
それは例えば、お母さまや親戚などの姿を見て、というきっかけがあったのでしょうか。
内山:母は専業主婦でした。昔ですから専業主婦が多い時代です。
その姿を見ながら、一方で看護師をしている親戚が何人かいましたので、そういう選択もあるのかと思って、看護師になることを決めました。
進路決定の際、看護師以外の選択肢はありましたか。
内山:実は、高校時代は教員を目指していて大学の教育学部の受験を考えていました。
3年生の時に「看護学校の養護教諭過程に進むと、教員免許も取れるし看護師も保健師も助産師も取れる」と、友達から誘われたことをきっかけに受験しました。
教育大学の受験もしましたが、結局看護師への道を選びました。
実際に看護の勉強を始めて、どのような印象を持たれましたか。
内山:私は教員になって数学や英語、歴史などを教えるつもりだったのに、「看護とは?」「人間とは?」といった追求ばかりだったので、最初は葛藤しました。
「なぜ18〜19歳で、人間の人生について今ここで考えて発表しなければならないのか、私には分からない」と、先生方にもずいぶん質問しました。
他の学生よりも、少し広い目線で看護の仕事を見ていたのでしょうか。
内山:そうですね。
同級生とはちょっと違う角度から看護や医療を見ていたように思います。
学生時代、何か思い出に残るエピソードはございますか?。
内山:実習の担当患者さんは、いまだに名前まで覚えています。
心筋梗塞の患者さんを担当してずっと受け持たせていただいたのですが、その方が特に印象に残っています。
その患者さんとの関わりを少し教えていただけますか。
内山:今と昔で医療は非常に変化している。
その人を思い出すたびにそう思います。
昔、心筋梗塞は「ベッド上安静」という治療がスタンダードでした。そこからステップアップしていくのも、心電図を取りながら、1ヶ月・2か月・3ヶ月と長い期間を要しました。
ですから、ベッド上安静中の療養上の世話を学生である私がするわけです。
毎日たくさんのケアを実施しながらその患者さんとたくさん関わることができました。
実習が終わる時に「本当に良くしてくれてありがとう。良い看護師さんになってね」と言ってくださって、「この仕事はやりがいがあるのかなあ」と感じて、すごく嬉しかったことを覚えています。
ライフイベントと共に歩み続けたキャリア
学生の時の患者さんとの関りを通じて、喜びを感じられる瞬間があったことは、ご自身の意欲も高めたでしょうね。卒業後はどちらに就職されたのですか。
内山:旭川市立病院に就職して、約2年間小児科と内科病棟で勤務しました。
その後結婚して上京し、杏林大学医学部付属病院で2年ほど仕事をして、出産を機に実家がある船橋市に引っ越しました。
1年目の頃は現場でのギャップを感じたり、困ったりしたことはありませんでしたか。
内山:私は現場に出て生き生きしたタイプですので、「看護ってこんなに面白いんだ」と思いました。
当時の看護学校のカリキュラムでは、実践項目は学生の時にほぼ経験していたので、何でもできるんです。
「このケアの目的と必要物品は何ですか?」と指導者に言われると、「目的はこれです。必要物品はこれです。注意点はこれです」と答えられるので「やってらっしゃい」というように進んでいきました。
基本的な技術はできる環境でした。今と昔の教育の現場は、現場自体が違いますね。
当時は、患者さんも今ほどインターネットで病名や治療法を調べてくることは少なく、入院したら「すべて先生にお任せします」という時代でしたよね。
内山:そうですね。
だから、学生にできることは療養上の世話がメインでした。
他には、例えば心筋梗塞について、何か分からないことがあれば、私が「私も勉強になるので」と言って調べてくるんです。
そして書いてきたレポートを患者さんに渡して、「これ、こういう意味なんですって」と情報共有をしていました。
ですから患者さんからとってもありがたがられましたね。
大学病院の超急性期の現場で
杏林大学病院での2年間は、何科でご勤務されたのですか。
内山:ICU、CCU、救命救急に配属されました。内科と小児科しか経験していなかったので、世界が大きく変わって面くらいました。
大学病院ですから、疾患をはじめ、かなりいろいろな患者さんがいらっしゃいますよね。
内山:それまで2年間私が勉強してきたことがまったく歯が立たなかったですね。
生命の危機に瀕した人が緊急で運ばれてきて治療する部署でしたので、すごく勉強になりましたけど、最初はとにかく怖かったですね。
今はあまり使用していませんが、脳室センサーなどのドレーンが身体のあちこちに入っている、そういう患者さんを目の当たりにすると、勉強せざるを得ないわけです。
転職されてそのような状況に置かれると、人によっては壁にぶつかってしまう方もいると思うのですが、副院長はどのようにして乗り越えられたのでしょうか。
内山:私は、看護師が自分に合っているかどうか、自分でよく分からなかった部分がありました。
でも結局、向いているか向いていないかは、全てをやり終えて、それから結論を出さないと卑怯だなと思ったんです。きちんとした理由がなければ、辞めるわけにはいかないなと。
「向いている」とは思わなかったのですけど、でもそこで「向いていない」という結論に至らなくて、「もうちょっとやってみよう」と思って、今まで続けてきたというのが本音です。
今までの経験と違ったり、自分の思い描いている看護と異なったりすると、拒絶してしまうこともあります。ただ、そこを乗り越えたり、もう少し見極めてみるという姿勢があると、本質を見つけていけるということでしょうか。
内山:そうですね、そう思いますね。
当院には毎年30名~50名の新人看護師が入ってきますが、最初に「泣いてもいいです。
転んでもいいです。だけど、自分で決めたことは最後まで諦めないで、起き上がってください」と話しています。
今の学生さんは大変恵まれていて、大学費用やアパート代など、未来の看護師のために親御さんたちがかなりの費用をかけています。
学校の先生も、一人の看護師を育てるために、非常に手をかけて努力をしているわけです。
「それを皆さん思い起こしてください」と必ず伝えてきました。
「そこで、あなたが諦めただけで、全てを終わりにして良いのですか?」ということですよね。
そうですね。
その一歩を乗り越える時の、すごく支えになる言葉になりますね。
内山:「大人になると希望と夢を簡単に終わらせてはいけないんだ」という意味があるんですけど。
現場で何かあった時に、そのまま離れてしまうのはもったいないですから、先輩看護師として言葉の支えを通して、アドバイスされているのですね。
内山:はい。そうですね。
目の前の患者さんを”絶対に助けたい”強い想い
出産されて船橋に引っ越してからは、どのようなキャリアを歩まれたのでしょうか。
内山:それからは、船橋市立医療センターに10年近く勤務しました。
私自身は、もともと好きな内科病棟で勤務したかったのですが、救急の病院ということもあって、また救急に配属になりました。
救急系で働く運命だったのかもしれません。
そこではスタッフナースですか?それとも、もう管理職に?
内山:スタッフナースです。
最初は脳外科病棟で1年弱勤務して、それから手術室に異動しました。
看護部長に「手術室だけは勘弁してください」と言ったのですが、人手不足もあり、ICU・救命救急での経験も考慮されたのか、手術室に配置になったのです。
そこから10年ほど、ほとんど手術室と救急外来での勤務でした。
長い期間急性期看護に携われてきたのですね。時間的にも拘束があったり、体力的にも非常にタフな現場だと思いますが、どのようにコントロールされましたか。
内山:生命の危機状態の患者さんがたくさん運ばれてきたのですが、「絶対助けたい!」という思いだけでしたね。
お子さんや、若い方もたくさん搬送されてきたので、医師・看護師・麻酔科医などチームで結束して目の間の命を救うことに全力を注ぎました。
とにかくみんなで協力してその患者さんを助けよう、という姿勢で取り組まれていたということでしょうか。
内山:その思いだけですね。
だから、私は寝ていなくてご飯も食べてなくて、もうクタクタなんですけど、「この人を今救いたい!」という思いが強かったと思います。
気持ちで体力的な面も乗り越えていらっしゃったのですね。手術室では、何か思い出に残るエピソードはございますか。
内山:手術室は、胃がんや大腸がんなど、予定で組まれている定期手術があって、それ以外に救急病院ですから、緊急の手術が昼夜問わずたくさん入ってきます。
定期手術は、事前に患者さんの状況が分かりますが、緊急の患者さんは、情報がほとんどないので、緊急手術に入り目の前にある情報で手術に挑む。そのような状況に立たされていました。
臨機応変に対応することが求められますね。
内山:そうする癖がつきましたね。
患者さんのモニターであるとか、状況、バイタルを見て判断するわけです。
定期の手術であれば、術前訪問されたり、事前の情報である程度コントロールされている中での手術になるかと思うのですが、緊急手術がとても多いのですね。
内山:そうですね。おそらく今も、この地区で一番多いと思います。
自分の中の問いの答えを探すために
その後はどのようなキャリアを?
内山:10年ずっと突っ走ってきたせいか、高熱が出やすくなって扁桃腺も腫れやすい状況で。
「もう腎臓悪くしちゃうから、手術しないとダメだよ」と言われた時に、「疲れたからなのかなあ?」と思って一度辞めたんです。その間に、最初に浮かんだ「教員と看護師とどっちが良かったのだろう?」という疑問に対する結論がまだ出ていなかったので、放送大学に入って大学の勉強をすることにしました。
そうしないと、私はいつまでも、頭の中でグルグルと考えてしまうと考えたんです。
それはお仕事を続けながらですか。
内山:仕事と子育てをしながらです。
自分でもよくやったと思います。
自分が取る単位をテレビとラジオで、録音・録画して、9時までに子供たちにご飯を食べさせて、歯磨きをさせて、宿題をさせて「9時からはお母さん勉強するよ」と言って、部屋に引っ込んじゃうんです。机で勉強していたら、ある時息子が「お母さんどうぞ」ってコーヒーを入れてきてくれたことがありました。
ご家族の協力もありながらとはいえ、大変でしたね。
「教員になったらこれを教えよう」という科目も受講されたのですか?
内山:いえ。
もちろん英語とか取りましたけれども、放送大学は「日本人と仏教」、宇宙と地球、経済学など、面白い教科がたくさんあって、面白いなと思うことがほとんど学べるんです。
そういう部分でも、好奇心的な部分というのでしょうか。「ああ、勉強だ」ではなく、楽しんで授業も受けられていたということでしょうか。
内山:そうですね。
興味を持たないと続かない人間なのだと思います。
在宅で看護の力を発揮
大学卒業後はどちらでご勤務されたのでしょうか
内山:そのあとは、市役所の保健師たちがやっている訪問看護を1年間やりました。保健師の友人が市役所に勤務していて「内山さん、訪問看護やらない?」と誘われて、アルバイトでやることになりました。
幅が広いですね。内科・小児科、急性期を経て、今度は在宅のフィールドですね。
内山:在宅の現場は、その時はもうショックでしたね。
印象に残る患者さんとの関わりを教えていただけますか。
内山:当時は訪問看護の走りの時代でした。
走りの時代というのは、社会の理解が十分ではありません。
私は、ある高齢の寝たきりの患者さんを受け持っていました。
意思疎通は、でも言ってることは分かったんですけど、同じく高齢の奥さんが、その患者さんを介護していました。
ある日訪問すると、高熱が続いて、頻脈で冷や汗も出ていて、片側の胸の音が悪い。
これは、肺炎を起こしているかもしれないと思い、家族の方に「おそらく肺炎を起こしているから、診てもらいたいと主治医の先生に言ってみてください」と伝えたら、病院の医師が「なんで訪問看護師にそんなことを言われなきゃいけないんだ?」と言って、来てくれなかったらしいんです。
それで、困ったなあと思いまして、私は医師ではないので処方は出来ません。
そこで、体位交換の枕を、夏掛けの布団を紐で結わえて作って、家族の方にタッピングを教えて、痰を出すのにお口の中をきれいにするように伝えて。拘縮もひどい患者さんだったのですが、2時間ごとに交換して、「夜も、もし可能だったらやってください」とやってもらって、10日ぐらい経過して解熱、症状が安定しました。
それはすごいですね。
内山:きっと、肺炎を起こしていたと思うんです。
口腔ケアをして、痰を取ったら胸の音もきれいになりましたし、当時吸引器はなかったんですよ。
だから、タッピングするしかなかったんです。今はタッピングは無効だと言いますが、私はそういう経験があるので、タッピングは有効だと思いました。
物がないので、手でやるしか他に方法がありませんでした。
それこそ看護の力で患者さんを回復させたのですね。
内山:看護の力だと思います。
おばあちゃんとその家族との協力で良くなったと、私は自負しているんです。
物が当たり前のようにある病院から、物がなかったり、自分で考えて物を作ったりという在宅
を経験されて、まったく違う世界での経験が、その後のキャリアに通じていくのでしょうか。
内山:そうですね。
その後訪問看護をして1年ほどたった時、知人から誘われて徳洲会病院に就職しました。
徳洲会は何年ぐらい勤務されたのですか。
内山:気付いたら7年経っていました。
就職したらすぐ主任になって、その後師長代行になりました。
そこから管理の道に進まれたのですね。
内山:そうですね。
私は、心臓外科ができるということで、ICUを作るように院長から言われて、そのために関連病院に行って、管理のハウツーなどいろいろ教わりました。
何も管理を学んでない時にやらなければならなかったので、いろいろな病院に行かせてもらって勉強して、それで立ち上げました。
1から情報を集めてというところからですか。
内山:そうですね。
実際どのようにして立ち上がっていったのでしょうか。
内山:そうです。
大学病院から心臓外科の先生が来て、立ち上げるのに半年ぐらいかかったでしょうか。
スタッフを集めてもらって、みんなでいろんなところに研修に行きました。
心臓外科の術後管理はできませんので、それをみんなで勉強して、あとは担当の大学から来た先生と、ずっと勉強会や打ち合わせを念入りにしました。
後編へ続く
千葉県済生会習志野病院に関する記事はコチラから
・No.39 内山弘子様(千葉県済生会習志野病院)後編「 急性期でも慢性期でも、看護師の役割は普遍」