No.25 伊東都様(セコメディック病院)前編「人の縁に導びかれて部長へ」

インタビュー

25回目のインタビューは、セコメディック病院の看護部長をされておられる伊東都様のインタビューをお届けします。

前編では、助産師さんとして活躍されていた頃の話や資格取得後に進学された時についてお伺いしています。

テレビ「プサマカシ」に憧れて

部長が看護師になろうと考えた理由ついて教えてください。

伊東:高校生の時に、「プサマカシ」というテレビ番組をみたのがきっかけです。

日本のある助産師さんが、海外の貧しい地域に出向いて支援活動をする話です。その番組の中で子どもが産まれてくる壮絶な場面をみて、女性を励ますその助産師の仕事ってすごいなって思いまして、看護師というよりはまず助産師を目指したんです。

インタビュアー:助産師になろうと思われて、まずは看護学校に入られましたが、看護学校はどのようにして選ばれましたか?

伊東:私は秋田出身なのですが、高校時代に時々東京に部活の関係で出て来ていたんです。それで秋田と東京では雰囲気が全然違いますので、高校を卒業したら華やかで明るい東京に出て来たいなと思っていました。ちょうどその頃、親戚が埼玉に居たので、親戚の近くならばまた安全だろう、という理由で学校を決めました。

助産師を目指すために看護学校に入られて、看護の勉強をする中で思い出に残るエピソードはありますか?

伊東:看護学生1年生の時に2日間の実習で初めて消化器外科に行った時の話です。

ある患者さんの20cm以上あるような大きな傷を先生が処置している時に、患者さんは手術後なのに、「俺よくなるのかな」って話をされていたのです。病名はわかりませんが、それまでは治療を始めたらみんな安心すると思って居たものですから、治療をしている過程でもずっと不安というものはあるのだな、と初めて気づきました。

これだから看護師さんってやることがある、その存在意味があるのかなって思った事が印象に残っていますね。

では助産師学校の方に入られてからは如何でしたか。イメージ通りの学生生活でしたか?

伊東:その1年間は、物凄く詰め込む事が多くて大変でした。

看護のことは当然知っていなければいけませんし、その上に技術だけでなく、性と生殖に関する健康・権利、法律、西洋・日本の女性の性に対する考え方等、女性を支援するために幅広く勉強するんです。

お産に関しては、助産師の国家試験を受けるのにも分娩は10件経験していなければいけなくて。

本当に幅も広くて奥深い勉強をした1年でした。

職人技を盗んだ3年間

ご卒業されてからはどのような進路でしたか。

伊東:勉強するために、助産師学校に入る前に行っていた、看護学校の病院に助産師として戻りました。当時そこは全国の国立病院の中でも一番分娩件数が多くて、母子センターもあって、最先端のところだったんです。基本的には正常分娩が中心でしたが、先端病院ですので未熟児が生まれることが予想されたり、多胎妊娠の分娩や形態異常、母体の合併症等の難しい分娩も取り扱っていましたので。

新人として働いてみて如何でしたか。勉強と実務とのギャップはありましたか。

伊東:そうですね。1年目は仕事してるっていうよりも勉強をしている感覚でした。

3年間で300件以上の分娩を経験させて頂いたんですが、予想通りになる事はありませんでしたね。生まれる時間を予想しても、途中で予想外のことが起きたり。分娩だけでなく、出産した女性の心の揺れ方も人それぞれでした。授乳することも幸せなことなのかな、と思っていましたが、それも考え方次第ですし。

毎日、知識や技術的なことだけでなく、新しい価値観も一緒に学ばせて頂けていましたね。

素晴らしいですね。自分の価値観とは違ったものを目の前で見ても、吸収されて。新人時代は、ご自身の幅を広げるという時期だったんでしょうか。

伊東:助産婦学校で学んだ、その人の意思決定を支える、のというものが大きいと思います。世の中の大多数が思っていることが必ず正しいわけでも、その人自身の価値観でもないですので、その人自身がそう思うならばそれでいいんだよ、と支援していくことを助産婦学校では学びましたから、仕事を初めてからもそのスタイルは変わりませんでしたね。

そうやって過ごして居たらあっという間に3年が過ぎました。

当時は助産師にもプリセプター制度はありましたか。

伊東:そういった制度はなくて、みんなが一緒に学ぶという環境でした。ベテランの40代から60代の助産師さん達が居ましたが「覚えたいんだったらついてきな」っていうような先輩が多かったです。職人から職人技を盗むような新人時代でしたので、今みたいに手厚くはなかったですかね。

分娩ではその個人の技みたいなものが実際に影響するのでしょうか。

伊東:そうですね。本当に感覚的なものがあるようで、私の何十倍も経験を積まれている先輩には「ほっといても産まれるよ」って言われたり、暴れる妊婦さんが心配なので関わろうとすると、「逆に関わりすぎるから甘えも出るんだ」って言われたり。それで実際言っていることが本当に当たることがあるんですよね。本当に先輩からは職人技を伝授されたっていうような思いがありますね。

今、新人の方は研修の内容をよく気にされています。教えてもらうことを期待している印象がありますが。

伊東:やっぱり、時代の流れってあると思うんですね。

私たちは看護学校の時から自分で自分を磨く力っていうのを持つように言われていました。目標は国家試験通過ではなく、患者さんにどれだけいいものを提供するかということを自分で考えて育った時代ですから。例えば実習に行っても、カリキュラムがあってもプラスアルファでもうちょっと何か学んで帰ってこようって言う風潮があった時代だと思うんです。

今はどちらかと言ったらあまり負荷をかけずに、できるだけ与えて、できないところをこう手取り足取り教えて卒業させてあげる、っていう時代に変わってきているのかなと思いますね。

新しいことだらけの日々

伊東:出産を期に4年間、仕事から離れていましたが産科がない病院で復職をしました。

というのも、最初の3年間で胃がんや脳梗塞を合併した妊婦さん達とお会いして、自分では全身を看られない、本当に井の中の蛙だなって感じていたからです。

それで、もう一回復職する時には脳外科と消化器外科を頑張っている病院に飛び込みました。

その時の部長さんが助産婦学校の30期上の先輩だったのも関係あるのかもしれませんが、外科と脳外科の混合病棟に希望通り配属されて、一生懸命勉強していこうかなって思っていた矢先、新設された内科病棟の主任になりました。

復帰して6ヶ月ですし、看護師の経験も浅いですから管理職はできませんと断ったのですが、「一つの経験だから」と言われて引き受けたんですよね。

今考えたら本当になんで自分がやるって言ったかがよくわからないくらい、恐ろしい事件なんですけど、それが管理職になる一番のきっかけでもあったし、実践の第一歩でした。

一スタッフとして働くのと管理をするというのはまた違う面ですよね。

伊東:初めての主任でしたが上に師長が居ないまま4年間過ごしました。何もわかりませんでしたから、大先輩の部長から一つ一つ教えて頂きながら勤務表を作ったりしていました。

役割としては実質的には師長のようなものでしたが、自分の中には管理者らしいものは何一つ根付いて居なくて、勤務表の一番上に名前はあるけれども、かなりのスタッフより主任だったと思います。

新しい病棟ということで大変なことはありましたか。

伊東:長く働いている准看護師さん達がいらしたので業務としてすごく困ったっていうことはありませんでしたが、来たばかりの人が主任になって納得いかないな、というような事はあったと思います。

なんでこんなにコミュニケーションが取れないのかなと思う事はありました。

でもスタッフからして見たら、ついこの間までは同じスタッフだったのに、主任になった途端に考え方や発言内容も変った、という感覚でしたでしょうね。

私も急にスタッフと一緒に文句を言って居られない立場になりましたが、上手くそれを説明できるほどの力も無く。自分に余裕があったりすればスタッフともあんなにケンカしなくてもよかったのに、と思うところはすごくあります。

進学でもっと先を目指す

その後はどのようなキャリアをお持ちになったんでしょうか?

伊東:看護師資格も助産師資格も持っていたので定年まで働いていけるだろうなとは思っていたんですけれども、管理者をやる上で法律やノウハウが全くわからなかったので、大学にいくことにしました。色々と資料を取り寄せてみたら大学の3年次に編入ができるということがわかりましたので、2年間だけの勉強ならば自分のキャリアを捨てる必要もないですから千葉大の看護学部に編入しました。

今ならば専門学校卒業後に修士課程にそのまま入れますが、当時は難したったんです。なので、この大学への編入は自分のキャリアをもっと先に進めていくためのステップという考えでした。

大学での授業は、どちらかというと単位を取るための補完教育が中心でしたので、今更という感覚はありましたが概論などを勉強しました。

でも助産婦学校を卒業して10年ぶりくらいに学校に行ってみると、違うものが見えてきましたね。

教える人はこういう考え方をしていたんだ、学ぶ人は、こういうところは気にして学ぶけれど、こういうことには興味がないんだ、とかそういう学びです。

とても有意義な2年間だったなあと思います。

卒業された後はどのように?

伊東:自分でも色々考えたのですが、また主任をやっていた病院にまた戻ってきました。

それまでの4年間がとても楽しかった訳ではないので、戻らないという選択肢もありました。でも、もう一緒に働く人や建物などの予想がある程度できていましたし、病院理念もう理解できていたので。自分にとって本当に良いところなのかがわからない新しいところに飛び込んでみる、博打を打つようなことはしたくなかったんです。

2年間現場を離れていて、戻られた時はどのような感じでしたか?

伊東:その2年の間に自分が行ってきた管理や教育に関して、「あそこが足りなかったな」と反省ができていました。

現場にいる頃は、「自分はこんなに頑張ってるのに」っていう気持ちが強かったんですが、離れてみたことで、自分は全然世の中を知らないからできてなかったんだ、ということがよくわかって。そこに立ち戻れたのは良かったです。

仕事を再開して間もなく師長になりましたが、その時には落ち着いて冷静に物事を見られるようになったような気がします。

学んだことを、現場に戻ってからも生かされて、自分でも反省されるのはすごく素敵ですね。

伊東:大学4年生の時に、アメリカから戻られたばかりの手島恵先生の看護管理の授業があったんです。

昔の婦長さんはスタッフのためにご飯を作るし、お金がないなら貸してくれる、というイメージがありますし、実際そういう管理が行われていたけれどもこれからの時代は違う。物やお金の動き、人の成長のことも考えて管理しないといけない。広く世の中に貢献する看護師を作るためにその人のキャリア形成もするのが今のマネージャーの仕事で、釜持ってきてご飯盛ってる場合じゃないのよ、って話を聞いた時にハッとしたんです。

先生の授業を受けて、師長はちゃんとしたマネージャーだっていうイメージが自分の中にできたのが大きかったと思います。

看護のあり方はその国々、時代時代で異なるので、マネジメントをするには倫理的なこと、世の中の情勢も知らないといけない、というようなことを広く学ばせて貰いました。

人の縁に導びかれて部長へ

戻られてから師長さんになり、その後は?

伊東:元々やりたかった脳外科と外科、バリバリの急性期に行きました。

助産師からスタートして、経験や知識をご自分で補完されているのは、元々の性格であるとか、親御さんの教えなど何か関係あるのでしょうか。

伊東:「知らない」「できない」っていうことは、全然患者さんの役に立ってない恥ずかしいことだな、と思うんです。

産科だけならば滅多に合併症はないですから、たまにあったらばみんなで助け合って乗り越えれば良いとも思うんですけど、私の中でわからないことが嫌という気持ちがあったんでしょうね。

お話を伺っていると、なるべくして部長になられたように思います。

伊東:不思議ですが、いろんな運、人の縁みたいなところで私は動いて来ている感じがします。

最初に私に主任を任せてくれた方は先輩でしたし、当院の前の看護部長は以前の同僚です。彼女は元々ここにあった別の病院で働いていらして、看護師人生の最後はここで、と転職したんですね。その後に3年くらいその方から誘われ続けたことがきっかけで、初めは師長としてこちらにお世話になることになりました。

人の繋がりが一番大きいですね。

周りの方も「この人に任せたい」と思うのでしょうね。部長になるきっかけはあったのでしょうか。

伊東:前の部長が、辞められた時です。

私が来る前に師長の半分が退職して看護部の組織が半壊したことがあるそうなんです。それで前の部長は組織を立て直すために尽力されていらしたのですが、ご家庭の事情もあって辞職しなければならなくなった時に、私にお願いしたいという風に言ってくださったんです。

私はどちらかというと、上に立ってマネジメントをするよりも現場で患者さんと接しながら何が問題なのかなとか、考えているのが一番ハッピーでしたのであまり乗り気ではありませんでした。好きか嫌いかと問われたら、嫌ですって言っていいですか?っていうような感じでした。ただ、年齢的にも他に任せられる人が居なかったので、やってくださいっていうことに。

部長になってみて実際は如何でしょうか。楽しさとかはありますか。

伊東:自分が譲れないところははっきり言ってもいい事が良いところですね。もうこんな看護したくないって、絶対こんな看護嫌だっていうとこと、こんな看護したいっていうことをはっきり言える、それが部長のやりがいになるんじゃないですかね。

師長としても同じ様なことはできなくはないですが、他の病棟のことまではわかりません。その点、部長には看護部全体を牽引する力がありますので、自分の思う方向に動かしていけます。

後編へ続く

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