東日本大震災から6年の歳月が経過しました。
あの日あの時の体験や経験からの学びを伝えていくのも大切な事だと考えています。
今回は震災直後の医療と消防の活動、また関東での生活体験をお伝えしたいと思います。
DMAT・緊急消防援助隊・防災ヘリ 全国規模で応援体制
私自身は、当時DMAT隊員ではなかったため、被災地への出動はしていません。
しかし出動した方の話や、消防職員から聞いた話をお伝えします。
DMATは47都道府県へ出動要請が入り被災地で活動していました。
また被災地以外でも、被災者を受入れるために、受け入れ先でDMATが多数活動もしていました。
沖縄県でもDMAT活動が終了した後でも、医療班として継続的に被災地へ医療従事者を派遣していました。
また、消防にいたっては緊急消防援助隊の出動を被災県以外へ速やかに下命、指揮支援隊が各県庁や対策本部へ入り、消防救助救急活動を展開していました。
沖縄県からも消防緊急援助隊として被災地で活動をしていました。
また佐賀県と沖縄県以外には各県が所有する消防防災ヘリがあります。
その防災ヘリも地域の事案に対応できるようにブロックごとに数機を残し、震災の対応にあたらせていました。
緊急消防援助隊とは
さきほど緊急消防援助隊という言葉がでてきましたが、初めて耳にした方もいるかもしれませんので少し解説したいと思います。
緊急消防援助隊も阪神淡路大震災を教訓に作られた制度です。
消防は各市町村や組合組織で運営されています。
その管轄組織や都道府県単位では対応できないほどの大規模な災害が起きたときに、消防庁長官から出動要請や依頼を受け、都道府県単位で部隊を組織して被災地で活動する部隊となっています。
東本大震災の時は速やかに要請がなされ、各都道府県隊が被災地で活動をしていました。
備蓄の重要性
東日本大震災の発災時に私は沖縄にいましたが、発災数日後に千葉にある看護学校へ入学するために移住しました。
余震も頻発しており、エリアメールが鳴るたびに構えて過ごしていました。
生活する中で困った事は、食料品や水、トイレットペーパーなどの生活必需品がスーパーやドラッグストアの棚から全てなくなってしまったことでした。
幸にも沖縄から持ち込んだ分で何とか乗り切ることが出来ましたが、買占めによる品薄状態を招いていました。
もし、各家庭で食糧や、トイレットペーパー、生活必需品もある程度備蓄されていたなら、こんなにも品薄状態が長く持続することはなかったのではないでしょうか?
平時から備蓄をしておくことの重要性を痛感させられました。
あれから6年、震災からの教訓や学びを忘れずに、防災指導や災害訓練を通して、今自分にできることを考えながら今後の活動につなげていければと思います。