No.244 荏原病院 黒井克昌 院長 前編:120年を超える歴史

インタビュー

120年以上前に感染症専門病院としてスタートした荏原病院

現在はいわゆる総合病院として地域医療の拠点に位置付けられています。

2年前に院長に就任された黒井克昌先生へのインタビュー前編では、先生のご経歴をお聞かせいただき、

お人柄に迫りました。

開設時は伝染病専門病院

中:今回は荏原病院、病院長の黒井克昌先生にお話を伺います。

先生どうぞよろしくお願いいたします。

黒井:よろしくお願いします。

中:まず、貴院の特徴を教えてください。

黒井:当院は昨年に設立120周年を迎えました。

非常に歴史のある病院です。

当初は感染症、当時は伝染病と呼ばれていましたが、その伝染病を専門とする病院でした。

現在は東京都保健医療公社の病院の一つとして総合的診療を行っており、主に急性期疾患を扱っています。

また地域医療支援病院として、近隣クリニックの先生方と協力しながら地域医を支えています。

登山の思い出

中:次に先生のご経歴についてお聞かください。

広島大学で学ばれたと伺いましたが、どのような学生生活でしたか。

黒井:医学部6年間のうち後半4年の専門課程は勉強に集中することを入学時点で決めていました。

専門課程に進むと自由な時間がなくなる、だったら最初の2年は今しかできないことをやろうと考え、

趣味の山登りをしていたことが思い出です。

登山道を登るのではなく、最短距離で頂上を目指し岩登りもするような登り方をしていました。

中:東京五輪の正式種目になっていま話題のボルタリングのような感じでしょうか。

黒井:似ているかもしれませんね。

当時はボルダリングの施設が国内に少なかったため、あくまで自然の中で楽しむスポーツでした。

医師、そして外科医を目指した理由

中:ご卒業の際、専門領域はどのように選択されましたか。

黒井:その点については入学した時に「将来は外科系」と決めていました。

もともと交通外傷の診療に携わりたいという希望がありましたので。

中:交通外傷に興味を持たれた理由をお聞かせください。

黒井:それは私が医師を目指した経緯と関係しています。

子どもの頃、自宅の近くに学校があったのですが、その生徒さんが交通事故にあわれたことが何度かあり、

お亡くなりになった方もいました。

当時は交通事故や死亡者数が増加しつつある時代でした。

私はまだ幼稚園か小学校低学年でしたけれども、子どもながらに

「交通事故にあった人をどうして助けられないのだろう」と不思議に感じたことが、

医師という職業を意識した最初だと思います。

医学生時代にいろいろな科を見て回るうちに「やはり外科系がいいな」との思いを強くし、

卒業を前にして最後まで悩んだのも、小児外科か消化器外科のどちらの外科にするかという選択でした。

最終的には先輩に引っ張られるようなかたちで消化器外科の道へ進むことになりました。

消化器外科医から乳腺外科医へ

中:消化器外科を選択されたご判断を、今どのように考えていらっしゃいますか。

黒井:間違いではなかったと思っています。

交通事故死はまだ多発していたものの、がんが急増している時代でしたから。

私が学生の時に、脳血管疾患を抜いてがんが死因のトップになっていました。

外科に入局してからの対象疾患も、ほとんどがんでした。

中:先生はいま院長職を務められながら、乳腺外科医として診療もされていらっしゃいますね。

黒井:最初の10年近くは消化器外科が中心で、消化器外科領域の研究のために大学院に進み、

胃がんの免疫機能を研究テーマとしていました。

なぜ途中で乳がん診るようになったかと申しますと、教授の意向です。

がんに関わる腫瘍免疫を研究していると、あるがんで起こる腫瘍免疫の変化が、

他のがんでもみられることがあり、研究対象が広がっていきました。

私の研究テーマであった腫瘍免疫の関連でフランスのパスツール研究所へ留学することになりました。

自分のスタイルで、すべきことをする

中:先ほどおっしゃったように、がんが日本人の死因のトップに躍り出て、

さらに増加しているという時代背景から、責任や焦りのようなものを感じられませんでしたか。

黒井:そういったプレッシャーはあまり感じませんでした。

何より自分が当時の医学水準に追いつきたいという思いが強かったです。

中:外科医として成長していく時期には、やりがいとともにご苦労も多いことと思います。

いま振り返られて、どのようなことがご自身の成長にプラスになったとお考えになりますか。

黒井:外科医ですから早く自分で手術ができるようになりたいと思うものの、

卒業1年目は手術室に入っても先輩のサポートがほとんどです。

とにかく先輩医師の邪魔をしないことが第一でした。

そこで時間を見つけては、自分自身で縫合や器具の使い方を練習していました。

しかしそれでも実際に手術する場面になりますと、手が思い通りに動かないのですね。

ですから寝ても覚めても、手の動かし方のシミュレーションを続けていたものです。

当時は車で通勤したのですが、赤信号で止まったわずかな時間も練習していました。

中:患者さんを救うためのそのような情熱を当たり前のことのようにお話しされる先生の素敵な雰囲気は、

患者さんや貴院のスタッフに自ずと伝わっていくのではないかと、お話を伺っていて感じました。

先生はそういった地道な努力をあまり苦とされないのでしょうか。

黒井:苦しいのは苦しいですけれど、やるべきことはやろうと思うタイプです。

先ほどの岩登りの話もそうですが、嫌ならば難しいルートで登らなくてもいいところを、

自分にあった方法で登頂を目指すというスタイルが好きです。

後編に続く

Interview with Toan & Carlos