No.176 病院長 平元 周様(横浜総合病院)前編:医療格差と難病に向き合う

インタビュー

今回は横浜総合病院の平元先生に、子ども時代を過ごされた利尻島での生活や、

そこから医師を目指そうと思われた経緯などを語っていただきました。

 

救急の受け入れを柱に

中:今回は横浜総合病院、病院長の平元周先生にお話を伺います。

先生、本日はどうぞよろしくお願いいたします。

平元:よろしくお願いします。

中:まず、貴院の特徴をお聞かせください。

平元:当院は横浜市北部地区の中核病院として、精神科以外の診療科を全科標榜しています。

特徴の一つは、救急に力を入れていることです。

24時間365日、救急患者を受け入れており、内科、外科、脳外科、整形、循環器科が毎日当直しています。

当院規模の民間病院でそこまでの応需体制をとっているのは、私自身、

脳外科医で救急が原点だったことが関係しています。

また、私の両親が認知症だったという経験から認知症対策が重要と考え、

認知症専門医3人と臨床心理士複数にて認知症の早期診断、早期治療をハイレベルで行っています。

消化器外科や産婦人科では内視鏡手術を積極的に行っていますし、

整形では一般診療に加えて骨粗鬆症に対して専門的な治療体制を敷いて対応しています。

さらに脳神経外科では、開頭手術・脳血管内手術の両方可能で、脳卒中診療に力を入れていますし、

循環器科も不整脈・虚血性心疾患治療に24時間対応し、心臓外科と連携しています。

糖尿病にも力を入れていますし、糖尿病などで足の切断を回避する目的で専門的治療を行っている

創傷ケアセンターも当院の特徴です。

利尻島での生活と医師への志

中:貴院の特徴には、先生のご経験やご専門が反映されている部分もおありのようですね。

では、先生ご自身のことをお尋ねいたします。

先生が医師を目指そうとされた経緯からお話しいただけますか。

平元:私は北海道の利尻島で生まれました。

父親は僧侶で、母親は小中学校の教員をしていました。

両親ともに関西出身なのですが、父が北海道の開拓僧として昭和28年に利尻に渡ったとのことのです。

二人とも若く「数年間行ってみる」という、やや冒険的な判断だったようです。

当時はニシンが豊漁で「海辺に行くと手でニシンが獲れた」という状態だったそうですが、

利尻に住んで2年後からピタっと来なくなり、漁師さんの生活はどん底になってしまったようです。

そのような状況で、両親はお寺の本堂を使って保育園を始めました。

中:まるで演歌の世界のようなお話ですね。

平元:その後、父母の会や町の協力も得てルンビニー保育園が建設されましたが、

それは、旭川以北で第一号だったとのことです。

私の子供の頃は病院に医師が不在という無医地区になったことが何度かあり、都会とは大きな医療格差がありました。

実際、私が中学生の頃、眼瞼縁炎に罹患した時、利尻では手に負えず

稚内の眼科を紹介されて通院するも結局治らず、ついに札幌の市立病院に入院したところ、

抗生物質の点滴ですぐに軽快したという経験をしました。

このような環境で育ったことも影響していると思いますが、札幌の高校に進学して将来のことを考え始めた時

「地元の社会に役立つことをしたい。それにはやはり医者かな」と考えました。

医師を目指した理由には、中学の同級生の女の子が発見の遅れから骨肉腫で亡くなった衝撃もありますが、

両親のボランティア精神も受け継いでいるのかもしれません。

難病患者さんからのメッセージ

中:そうしますと、高校の頃から下宿生活をされ、医学部を目指されたのですね。

医学生時代の思い出に残るエピソードはございますか。

平元:医学部5年の冬に、難病団体の患者さんと出会っていろいろ教えられました。

当時、難病の患者さんは医療費負担が高額のために生活が困窮し一家心中なども起きている時代でした。

私が出会った難病団体の方はご自身がそのような過酷な環境であっても、

他の患者さんのことを心配してお互い支えあおうという姿勢であり、とても感動しました。

その一方で当時の我々医学生は、例えば実習で病院に行くと、まだ医師でもないのに

看護師や患者さんから「先生、先生」ともてはやされました。

「このまま医者になってはいけない」と思ったことが、難病団体を巡る行動を始めたきっかけでした。

6年生の6月に休学し東京に出て、透析のため生活保護を受けている方の家に居候させてもらったり、

難病の患者さんを訪ねて回ったりしました。

その時、患者さんから言われた「今の医者は病気しかみてくれない。

病気になると、家族のこと、将来のことで不安が多く、精神的な負担も大きい。

さらに経済的な心配もしなくてはならない。

単に身体的なことだけではなく、精神的なことも経済的な的なことまでも考えられる医者になってほしい」

という言葉は今でも忘れていません。

中:学生の頃から医療の社会的な課題にご興味があったのですね。

平元:しかしまだ学生なのに社会を見て考えたいというのには甘えがあったと思います。

難病の患者・家族からの「経済面までも考えられる医者になってほしい」という思いに応えるためにも、

何より国家試験に受かり、早く医者になることが先決と考え、3か月で復学しました。

復学の際には、未実習科の教授には頭を下げ、追加の実習をお願いし、

ラグビー部顧問の教授から「実習よりラグビー部へ復帰を」と言われ、実習を掛け持ちし

ラグビーも最後までやり抜きましたが、最後の最後に必死で勉強してどうにか国試に受かりました。

脳外科医としてのスタート

中:ラグビーのお話もお伺いしたのですが、まずは先生が医師になられてからのご経歴をお聞かせください。

平元:弘前大学に合格した時、利尻富士町が私のために奨学金制度を作り、

その奨学金を受けて大学生活を送りましたので、私自身、故郷利尻の医療に少しでも貢献したいと考えていました。

地元に帰るつもりでしたので、卒業直後は当時、研修病院として最先端にあった都内の病院で研修しました。

研修先病院での所属は脳外科でしたが、2年目になり、アルバイトで当直した病院が、

救急患者を断わらない、何科でも見るという野戦病院的な感じでしたので、

ここで勉強すれば僻地に行った時に役立つと思い、卒後4年目にその病院に移りました。

しかし、勤務してすぐに利尻にあった道立病院が赤字のために廃院となり診療所に変わることが決定しました。

町長より「若くして病院ではなく、診療所に来てもらっても設備もないし、

十分な医療もできないから申し訳ない」ということで、利尻に戻る選択肢は消滅しました。

もちろん、地元の奨学金第1号でしたので、もらった額以上を寄付の形で返済しました。

その後、さまざまな人との出会いがあり、最終的に脳外科に決め、

脳外科専門医資格を取得し本格的にこの道に進みました。

脳外科では働き盛りで突然倒れた患者さんを多く診ます。

患者さんが入院した途端にご家族が生活に困ることになる、

本当に人生を左右するところと関わることになります。

そのような患者さんの命と生活を対象とする医療は、学生時代の経験や自分の医療感からも、

正に自分にとっては適職だったと実感しています。

病院住まい

中:こちらの病院にいらしたのはいつ頃でしょうか。

平元:平成元年9月に当院の脳外科に着任しました。

当院に赴任する前の7年間に前病院で1200例の手術を経験し、そのうち800例は自分が執刀し、

毎日のように手術していました。

しかし、当院着任当初は症例も少なく、救急隊員に「少しは患者さんを連れてきてよ」などと言いながら

患者受け入れ数を増やしていきました。

やがて患者さんが増えてくるに従い、ほとんど病院に住み込んでいるような生活になりました。

中:では、先生が貴院の脳外科を大きくされてきたわけですね。

先生にとって脳外科の魅力は、どのようなことでしょうか。

平元:意識がない状態で運ばれてきた方が、意識が戻り元気になって退院される、

あるいは麻痺で動かない手足がリハビリなどで動くようになる。

このような劇的な変化は脳外科以外では味わえないことです。

後編に続く

Interview Team