今回は相澤病院の小坂 晶巳副院長にインタビューさせて頂きました。
看護部の部長としても組織をまとめる小坂副院長の手腕に迫ります。
アセスメントしながら、事前に手を打つ力を身に着けた
看護師になろうと思った理由についてお聞かせいただけますか。
小坂:進路を決める頃に親や親戚から「女性もこれからは資格があって、仕事に就く時代になる」という話がありました。
自分は人にお世話をする事が好きだったので、人の役に立つ仕事がしたいという思いが看護学校に行くきっかけになりました。
看護学校を選ぶにあたって決めた基準は何かありますか。
小坂:地元で進学したいと思っていたのですが、両親から「全寮制の学校で、人に気を遣い人に揉まれた経験をするように」と言われて進学する看護学校を決めました。
実際に寮に入られてみていかがでしたか。
小坂:3年生前期までは、1~3年生が合同で一部屋に暮らしていました。
先輩が実習で疲れている事が分かると、気を遣って先輩の生活リズムに合わせるようにしていました。
これらの経験を通じて人との関わりを学び、とても楽しい学生生活でした。
学校生活で何か印象に残るエピソードはありますか。
小坂:1年生で初めて実習に行った時、先輩が患者さんのお世話や会話をしている姿を見て、これが看護師の仕事なのかと凄く驚きました。
思い描いた看護師像や憧れもなく看護の道を目指していた事もあって、一年生の時の経験は印象に残っています。
また、学校の勉強が大変で、色々と迷惑をかけた方だったと思います。
しかし、辞めようと思った事はありませんでした。
就職を考えた時の病院選びはどのようにされましたか。
小坂:就職を検討する時は学校の実習病院に残る道もありました。
自分は色々な事にチャレンジしたいと思っていました。
人間関係においても働く場所においても新しい場所でチャレンジしようと思っていましたので地元の大学付属病院を選択しました。
入職した1年目は何科に配属されましたか。
小坂:最初は耳鼻咽喉科、形成外科でした。
大学病院だったので、経験の無い疾患や全身熱傷で管理が必要な患者さんの看護を経験しました。
この経験から、手術室看護に興味を持ち、次の職場に手術室を選択しました。当時働いていた大学付属病院が、東京にある大学付属病院と提携をしていたこともあり、東京へ勤務場所を移しました。
東京の大学病院の手術室で勤務されてみていかがでしたか。
小坂:人間関係は大変なこともありましたが、仕事は楽しかったですし、勉強になりました。
休日は、旅行に出かけたり、絵を見に行くこともできました。
もともとおられた、地元の大学付属病院に戻ってこられたのですか。
小坂:大学病院の方からは戻ってきてもよいと言われていましたが、戻るときに知り合いから声を掛けられて、別の病院に入職しました。
そちらの病院では、何科に配属されましたか。
小坂:主に小児科外来で働いていました。
看護師がお母さんから症状を聞き取り、アセスメントをする必要がありました。
感染症が疑われるようであれば、事前に情報を取って、先生に情報提供をして、感染が拡大しないように隔離室を使っていく事もありました。
患者さんを診る視点をもって看護師がアセスメントしながら、事前に手を打つという力が求められる場所でした。
自分にとって大変成長の場になりました。
小児科の経験は大きかったと思います。
人生やりたいと思った時がやりどき
小児科外来をされた後は、病棟に戻られましたか。
小坂:出産を機に一度退職しました。
ここからが相澤病院に入職するきっかけとなるのですが、二人目のお産の時に分娩台で、助産師になりたいと思いました。
お産を経験して、命がけで産むという体験をしました。
それを支える助産師の姿や、声かけ、励ましの手を握ってもらう時の温かさ等のかかわりが私の人生を変えました。
新人の時に働いた大学付属病院で出産をしたので、同期の助産師がいて、そのことを相談しました。
私も助産師になりたいと話した時、彼女は「人生やりたいと思った時がやりどき、やってみればどうか」と言ってもらったので、受験することにしました。
4月に二人目の出産をし、その年の秋頃から受験勉強を始めて一年後の4月に助産専攻科に入学しました。
子どもを保育園に預けて、主人や両親にも手助けや協力してもらいました。
そして、相澤病院の新人助産師として産科病棟に入職しました。
思い出に残るような助産師としての経験はありますか。
小坂:基本は母子ともに元気で安全でなければなりませんが、そうでない事もあります。
分娩直前に子宮が破裂し、お母さんは子宮を取る事になった経験があります。
妊娠高血圧症候群になったお母さんが血圧のコントロールが上手く行かず、けいれん発作を起こした分娩の介助もしました。
普通は元気よく生まれて当然ですけど、もう一方では危機が迫っていることもあります。
責任は重いけど、やりがいのある仕事だと思っています。
やりたいと思ったサービスを皆で作っていった
その後は産科病棟で管理者の道に進まれていかれたのでしょうか。
管理職になって現場とは違った点で、スタッフを見る事などで苦労されたことなどはありましたか。
小坂:苦労したこともありますが、どちらかといえば凄く楽しかったです。
助産師として新しいサービスを提供したいという事を考えたり、もっとお産や育児を楽しんでもらうにはどうしたらいいかと考えたりしながら、いつも働いていました。
管理職になったことで、様々なアイデアを組織として実現させる立場になりました。
両親学級や祖父母学級を立ち上げる事や病棟助産師が赤ちゃんの一カ月検診の小児科に出向いて、お家で困っている事はないか相談を受けるサービスを始めました。
母乳分泌の様子や赤ちゃんの体重増加の状況から今の状況でいいといった事を後押しする支援です。
病棟でいつもお世話していた助産師が顔を見せる事で様々な育児の悩みを相談しやすい環境に整えました。
こうして新しいサービスをみんなの力を借りて楽しみながら作りました。
今もそれは引き継がれていて、現場でもやってもらっています。
素敵なお話をありがとうございます。その後は、看護部長になられたのでしょうか。
小坂:その当時は、院長補佐代行という役職で、一般的にいう副看護部長の役職になりました。
そして、前任の者の異動に伴って、統括院長補佐になり、組織の変遷の中で役割と共に、副院長 看護部部長という名称が変わりました。
看護の質を常に向上させていく
看護部長になった時、全体を見るという形になると思いますが、その時には戸惑いなどはありましたか。
小坂:まずは看護部のビジョンを策定するという事をしました。
前任者と共に話し合ってきたことを院長の元へ持って行き、看護部はこうありたいという事を交渉していく過程でした。
私の役割として最初にやる事として数カ月はそれに時間を要し、組織の中が変わっていく中で、どうしていくか考えていると1年は、あっという間に過ぎ去りました。
2年目になり、今まで一年間考えてきたビジョンを形にする為にどのような取り組みをされたのでしょうか。
小坂:自分がやりたい看護やビジョンへと近づけるために、より看護部の組織を強くして、太くしたいと考えました。
そのためには副部長を立てる必要がありました。
院長と交渉して、副部長というポストを作ってもらいました。
そういった形で2年目、3年目は過ぎていきました。
どのような形でスタッフに向けて、看護部の描き求めているビジョンを投げかけているのでしょうか。
小坂:着実に一歩二歩と前進して現在は、委員会を通して看護部ビジョンが達成できるよう活動をしています。業務改善と同時に看護の質の向上を目指しています。
次に、育成を含めて、もう少し管理職の層を厚くしなければならないと思っています。
副部長が病棟を見ている部分もありますので、管理職を厚くして役割を整理していく事が次の目標だと考えています。
また、相澤病院はJCI(ジョイントコミッションインターナショナル) という患者さんの安全確保と医療の質を第三者的立場から医療機関を評価する国際的な医療機能評価機構の認証を取得している病院です。
甲信越であれば当院が初めてとった病院で、全国で6番目に認証を受けました。
看護品質担当副部長がJCIに関与した看護の質に特化していて、手順や患者さんの転倒転落率を下げるために何ができるか、そういう看護の質を考える人で様々な取り組みをしています。
JCIの審査の基準をクリアすると認定されるのですか。
小坂:そうです、これをしたおかげで、手順を整理する事ができ、また病院内もずいぶん整理整頓されました。
細かいことを言えば段ボールの再利用もしません。
以前は再利用し、衛生材料を小分けして収納していましたが、段ボールは不潔な物となっていますので、全部プラスチック製の洗えるものへ買い替え、全て拭けるものや洗えるものに変更しました。
後編に続く
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No.74 小坂 晶巳様(相澤病院)後編「急性期病院で学んでどこでも通用する看護師に」