前編に続き、院長就任の経緯、学生時代のラグビー経験と医療のつながり、
看護師への期待などをお話しいただきました。
アドバンス・ケア・プランニング
中:人との出会いから選ばれた脳外科ですが、たいへん適職だったようですね。
平元:脳外科は、患者さんの人生を左右する場面の連続です。
瞳孔が散大し「もうだめだろう」という人でも、超急性期に手術を行い元気に帰っていかれた方もいます。
そのような方からはいまだに年賀状をいただいています。
脳外科医として疾患の治療のみでなく、私が関わったライフワークの一つが、臓器移植医療です。
私はこれまでに約50人の方から腎臓の提供をいただきました。
もちろんそれは提供数を増やすことが目的なのではありません。
回復の可能性がなくなった方の、最後に残された可能性として、臓器提供というかたちで
命をリレーする選択肢を考えていただきたいという思いからです。
日本での臓器提供者数は年間100人前後で先進国では最低です。
これは脳外科医や救急医のみでなく政府も国民も考えていかなくてはならない課題だと思います。
中:近年は脳外科でも患者さんの高齢化も進み、新たな課題が生じているのではないでしょうか。
平元:高齢で意識がなく、回復の見込みがほとんどない患者さんを、
経管栄養等で命を長らえるという医行為が増えています。
それがご本人の望んでいたことであれば良いのですが、そうでない場合、
本当に幸せな形とは言えないのではないかとの思いをぬぐえません。
この問題に対して近年、アドバンス・ケア・プランニング(ACP)の重要性が指摘されるようになりました。
患者さんやご家族が事前に人生の最終段階の医療に関してどのように考えるかという意思を
ある程度決めておく、そのプロセスを医療者が援助するということです。
今後はACPが社会的に必須となってくるでしょう。
周囲からの期待と要望
中:脳外科の臨床医としてアクティブに活動されてきて、今は病院長・理事長としてご活躍です。
病院長になられた頃のことをお聞かせください。
平元:十年以上前、一時期、他院に移ることを考えていました。
ところが紆余曲折があって前任の院長が退職し、経営側から院長代行に指名されました。
当時、私は救急部長と脳外科部長でしたが、副院長の経験もないので無理ですと一度は断りましたが、
状況が二転三転した結果、結局お引き受けすることになりました。
院長代行を務めるにあたり、それまでの私自身の体験から「とにかく救急をしっかり診よう。
患者さんを断らない医療をやろう」ということを心に誓いました。
院長を引き受けた後しばらくは、ストレスのせいだと思いますが、毎朝4時、5時に目が覚めてしまい、
6時前には病院に着いて病棟を見て回るといった生活をしていました。
数か月たつと救急車の受け入れが少しずつ増え始め、
赤字続きだった経営も1年後には黒字へと転換することができました。
診療報酬改定で救急医療管理加算を算定できるようになったという時代の変化も、
既に救急を強化していた当院にとって追い風となったと思います。
その後、平成18年に理事長も兼務することになり、
いろいろなハプニングもありましたが、現在に至っています。
中:周囲の方々から頼りにされ、次々とそれに応えていかれた結果、
現在のご役職をお務めすることになったのですね。
平元:現在は当院での役職とは別に、横浜市病院協会の副会長や横浜市の救急業務検討委員、
認知症医療施作検討委員会委員なども務めています。
頼まれると断れない性格のために引き受けてしまっています。
もっと落ち着いた生活がしたいのですが、自分の要領が悪いためだと観念しています。
心技一如
中:話題を変え、看護師についてお伺いしたいと思います。
先生が「病院ではこんな看護師に勤務してもらいたい」と期待される看護師像はございますか。
平元:看護師も今はますます専門科が進み知識が要求される時代です。
そんな時代ですが、やはり原点は、患者さんに寄り添い支えることだと思います。
これから高齢化社会がさらに進展し、看護師が看取りに関わる場面も増えていくことでしょう。
そのような場面で、その方を患者さんとしてだけでなく、その方の人生に思いを馳せながら
お見送りする姿勢を大切にしていただきたいです。
当院の理念は「心技一如」です。
医療が日進月歩している中で、常に「自分は井の中の蛙になっていないか、このままで良いのか」と
反省しながら前を向いていく、そういう看護師であって欲しいと思います。
そのため、看護師が学会に積極的に参加することを奨励しています。
中:「医師は疾患をみて、看護師は人をみる」という話を耳にすることがあるのですが、
お話を伺っていますと、先生は医師でありながら患者さんの疾患だけではなく、人として接していらっしゃるように感じました。
平元:かつて医者という職業は「医学の知識をもって患者を治してあげる」といった存在だったと思います。
ところが今は生活習慣病と呼ばれる疾患が増加し、医者は上から目線のような態度でいられなくなりました。
例えば糖尿病にしても高血圧にしても、疾患そのものは治らないですから。
そのような治せない病気を患者さんと一緒になり、良好な状態に改善・維持することが医者の仕事です。
がんも同じです。
抗がん剤を使いながら限られた余命を生きていらっしゃる方を前にして
「あなたのそばにいて、あなたのことを考えていますよ」という思いでいられる医者でありたいと
思っています。
One for all, All for one
中:この辺で、先ほど少しお話しいただいた、大学時代のラグビーの話をお聞かせいただけますか。
平元:大学時代は6年間、ラグビーに明け暮れ、キャプテンも経験しました。
冬季は雪の中で走って練習していましたから、足腰はかなり鍛えられました。
またスクラムの最前列でしたので、首の骨が折れないように首の筋肉を鍛えていたため、
首回りが5㎝以上も太くなり、今も47cmあり、着られるワイシャツは滅多に売っていません。
中:チーム成績はいかがでしたか。
平元:東日本医科学生体育大会(東医体)では6年間のうち優勝が2回、2位が1回、3位が2回でしたが、
常に優勝を目指して必死で練習しました。
当時の弘前大学医学部ラグビー部は最初の黄金期でした。
今は私も歳をとり、OB会では大御所の一人になりました。
後輩には私はいつも
「ラグビーは‘One for all, All for one’、全員が助け合いながら一つの目標を目指すスポーツだ。
これこそ、チーム医療の本当の精神だろう。お前たちも医者になって、苦しいこともあるだろうけれど、
ラグビーの精神を忘れず、全員で医療を支える気持ちでやっていけ」
と偉そうに言っています。
中:なるほど。ラグビーのご経験も医療につながっているのですね。
では最後に、看護師やこれから看護師を目指す人に、メッセージをいただけますか。
平元:看護師は、本当に大変な仕事だと思います。
大変ですけれども、やはり、患者さんやご家族が「この人に出会えて良かった」という気持ちになれて、
幸せになれるような看護師であって欲しいと願います。
排泄ケアなど内心では嫌だと思うようなことがあるかもしれませんが、
それでも笑顔で接してあげられるような、プロとしての思いやりの気持ちだけは忘れないでください。
シンカナース編集長インタビュー後記
お話の冒頭から、先生のお話はドラマティックで波乱万丈な人生を生き抜いてらっしゃったのだと感じました。
心に決めたことを真っ直ぐに進まれ、意図しない環境の変化にはしなやかに対応される。
こうしたことが出来るのも、先生の懐の深さなのだと感じます。
臨床医として、院長として、患者さんのことを常に考え、時間を惜しまず治療に、経営に専念されていらっしゃる。
医師の崇高な志を教えていただくことが出来ました。
「プロ」として看護師も進化する時なのだと痛感します。