No.116 出井 小幸様(帯津三敬病院)前編「目的や向上心をもって取り組む」

インタビュー

今回は帯津三敬病院の看護部長、認定看護管理者でもいらっしゃる出井小幸様にインタビューをさせて頂きました。

出井看護部長の手腕と魅力に迫ります。

幼い頃の淡い気持ち

看護師になろうと思った理由はなんですか?

出井:私の祖母が胃ガンの末期でした。私は非常におばあちゃん子で、寝泊まりしながらおばあちゃんの看護をしていました。具合が悪くなっていく祖母を見るだけで何もできなかったのに対して、看護師の手際の良さに心を動かされたときに看護師になろうと思いました。

進路を決めるとき、気持ちは変わらなかったですか?

出井:一時、医師がいいと思った時代はありましたが、医師ではできない寄り添う看護はまた違うと思ったため、看護師を選択しました。

実際その学校を選ぶ際、どのようにして決めましたか?

出井:私の時代はまだ大学が一つ二つぐらいでした。一般教養と看護の専門分野を一緒にしている、今で言う衛生看護という学校がありました。勿論私立ですが、迷いなくそこを選択しました。早く免許が欲しいのと、東京の大学病院の学校で最先端の看護ができると思ったため選びました。今はほとんど大学の時代なので、専門で何が一番その学校で大事にしているかを選択していただきたいと思います。

コミュニケーションとは。

学校に進まれてから、何か印象に残るエピソードはありますか?

出井:まだ結核病棟に実習があった時代ですが、その時に若い女性が「私は人を好きになることも許されない病気なの。命が限られているから人を好きになって結婚できないことがあなた達には分からない」と言いました。末期でした。この言葉はとても心に残っています。その時にかける言葉は勿論なかったです。いい薬がなく、まだ20代半ばの方がそういう病に倒れていく時代で、何もできない病気もあると感じました。

衛生看護科を卒業した後はどこに就職しましたか?

出井:迷いなく大学病院に勤務しました。大学病院で勤務をして良かったことも悪かったこともあります。大学病院は「実験の場」と言うとおかしいですが、開発です。治験と言い、薬の開発など様々なものを試し、次にいいものを作り、治療ができる薬品を開発するシステムです。私は腫瘍整形、整形外科に配属となりました。70代の奥様が相談に来られ、「これ以上大学病院で先生たちに協力して、お父さんがダルマになる」と言われました。要は手に転移すると手を切断し、足に転移すると足を切断します。20歳の私がその相談を受けた時に、答えられなかったです。

ご家族の言葉を受けて、看護をしていく中で、その言葉が生きてきたことはありますか?

出井:若い私に答えを求めていたわけではなかったです。思いを分かってほしい、受け止めてほしい。共感は一つの看護。何も言わずそばにいて、背中をさすり手を握る、これで十分です。最後はご自身が選択をします。一緒に共感をして答えを自分の中で出す、その作業の中のプロセスだと思います。

「何かここで答えなければいけない」、「何かここですごくいい言葉を出さなくてはいけない」、「専門職らしい言葉を何かお伝えしなくてはいけない」とずっと駆られていました。しかしそうではないと、看護の年を重ねていくと感じます。悩みは最終的には自分で結論を出す。だれか聞いてほしい、そばにいてほしい、共感して欲しい、そこなのだと思います。

次のステージへの準備

最初の腫瘍整形は何年間勤務していましたか?

出井:5年間です。そこで大学病院の現実が分かったので、さらに多角的に試したい、違う所でも学ぶこともあると思いました。看護師はかなり転職がありますが、ある意味自分の中で目的がありました。人間関係により転職を単純に考えますが、今の人たちに必要なのは目的意識、自分のスキルをどう生かしていくかです。私は今これをやりたいという明確なビジョンを自分に課せないと、1年はあっという間なので、無駄にただ転職を繰り返し、履歴書だけを汚してしまいます。

後編へ続く