No.93 中村 美津様(神戸徳洲会病院) 前編「相手の気持ちに寄り添う」

インタビュー

今回は神戸徳洲会病院の看護部長、中村 美津様にインタビューをさせて頂きました。

部長として看護部という大所帯をまとめていらっしゃるその手腕に迫ります。

人の役に立つ仕事に就きたい

看護師を目指されたきっかけを教えていただけますでしょうか。

中村:皆さんも小学校の頃授業などで「将来何になりますか」と聞かれたことがあると思いますが、そういう時に漠然と「看護師」と答えていました。

家族が病院にかかることがあり、私も幼少期から看護師と関わる機会があったので、なんとなくそう思っていたのでしょう。

中学の頃、三浦綾子さんの「塩狩峠」を読み「人生って何だろう」と深く考えた時に、人の役に立つ仕事に就きたいと思い、看護師になることにしました。

実際に看護師になるために学校に進まれて、イメージとのギャップはありましたか。

中村:ありました。

やはり「優しい」というイメージだけで、実際の仕事は知りませんでしたからね。

看護学校に入ると、まずは「看護学概論」でナイチンゲール誓詞、看護を学びますが、その中で「環境を整える」という項目があります。

私はそれまでそうした事に特に気を配った事がなかったのですが、部屋の空気や採光にも気を配るということが看護では必要だと知り、驚きました。

今「ホスピタリティ」という言葉がありますが、看護の原点はそこなので、その「癒し」の部分を看護師が担っているのかなと思っています。

「ありがとう」と言ってもらえる仕事

実習で印象に残っている患者さんについて聞かせていただけますか。

中村:成功体験として心に残っているお一人は、難病の筋無力症の方です。

それまで普通に生活されていた方が、疾患の進行に伴いどんどん力を入れられなくなり、できていた事もができなくなって行くという状況でした。

ですから、「今ある能力でできることは何なのだろう」ということを患者さんと一緒に考え、工夫しながら色々なことを一緒に行いました。

その結果、出来ることが少なくなりつつある状況にあった患者さんに、「自分でできる」機会を設けた事について感謝して頂けました。

こういうところに看護のやりがいがあるのかな、と感じ、「ありがとう」とも言ってもらえる仕事はなかなかないと感じ、その事例を卒業論文にも書かせていただきました。

どうしてその患者さんと良い関係を作れたのでしょうか。

中村:一言で言えば、相手の気持ちに寄り添う、ということなのだと思います。

押しつけてもいけません。

お互いに話をしながら、2人で一緒に取り組んだことが良かったのだと思います。

学生の時からすでに「患者さんと一緒に歩いていく」という姿勢を持っていらしたのですね。

中村:その方の場合は、治療も対処療法しかありませんでしたし症状が進行しますから、じっくりと話し合う時間をもつことができたのだと思います。

この仕事に就いて、大事だと思うのは、知識とスキル(技術)とコミュニケーション能力の3つです。

知識はもちろん、患者さんに安全な医療を提供するための医療技術・看護技術が必要ですし、人の気持ちに寄り添うためのコミュニケーション能力も必要です。

自分でもこの3点を育てていきたいと思っているので、自分自身で能力を伸ばせるように課題を課しています。

自分の傾向を知り、認める

どうしたらレベルアップできるのでしょうか。

中村:自分の悪いところを認めることからスタートします。

自分の傾向を知るためには、友人や上長からの指摘が役に立ちます。

何度も指摘される部分は自分の傾向ですから、反発せずに認めていくしか無いと思います。

でもそうして、指摘して支えてくれる人は働く中でとても大事だと思います。

看護学校卒業後は、どちらの診療科を希望されたのですか。

中村:小児科、未熟児センターのある小児科病棟に就職しました。

こういう人の人生に関わる仕事はそうありません。

お子さんと接していて、すくすくと成長していかれることに関しては喜びを感じましたが、悲しいこともありました。

印象に残っているのは奇形を持って生まれたお子さんです。

生まれてすぐNICUに入ったので、生後3日後くらいまではお母さんも対面できませんでした。

初めてご両親が対面された時に泣き崩れていらしたのを覚えています。

このお子さんは心臓にも奇形がありましたので、1週間しか生きられませんでした。

お母さんもその短い期間で、様々なことを受け止めるのはとても大変だったと思います。

それをサポートし、母親になった実感を感じてお帰り頂くためにも、当時はあまり一般的ではなかったのですが、お母さんと一緒にエンゼルケアを行いました。

その子だけではなく、ご両親との関わりも重要だということを強く感じたケースでした。

小児科には何年程いらしたのでしょうか。

中村:3年半勤めて退職しました。

10年程子育てをしていたので看護とは離れていて、その間に医療事務の資格を取るなど、少し別のことにチャレンジしていました。

看護の底力

看護師に戻るきっかけがあったのですか。

中村:看護師になったのも人の役に立ちたいという思いからでしたから「もう一度、自分に求められている役割を感じたい」と思って戻りました。

その頃には家庭の都合で転勤していましたので、別の病院の脳神経外科に入りました。

NICUである程度のことは学んでいましたが、やはり分野が全く異なりましたので本当に学びに行った気分でした。

「リハビリ期間ですから大目に見てください」と言いながら始めていましたが、やはり体で覚えている部分があるようで、3カ月もすると動けるようになってきました。

ブランクを経て新しい分野に飛び込むことは怖くはなかったのでしょうか。

中村: また一から勉強できたことがとても楽しかったのです。

良いドクターたちも沢山いましたし、学生の実習を受け入れている病院でしたので、ドクターから学生へ向けた説明を一緒に聞く事もできました。

本当に脳外科はとても楽しかったので、そこで15年間、急性期から慢性期、脳の意識障害の方のリハビリの研究のようなところまでやらせていただきました。

脳には膨大な量の細胞がありますが、使われているのは極一部です。

ドクターはオペをしますが、病気で失われた脳細胞は復活させられません。

そこを担うのは術後のリハビリです。

オペ後にその方が回復するかに、その後のリハビリと看護の力が大きく関わってきます。

10年間寝たきりで意識がはっきりせず、言葉も発せられない状態だった年配の女性が、普通にお話して、歩いて帰られたというケースもありました。

それはとても驚きましたし、感動したケースです。

15年間の間に役職に就かれた事はございましたか。

中村:実は、復帰した1年目でもう主任になりました。

看護学の教え方を認められて、准教師になり看護学校に教えに行くこともありました。学校では人に教えながら、自分も勉強するという感覚がありました。

看護から離れていた間もそうですが、出会った様々な価値観をもつ方々との関わりや、自分の置かれた環境からも様々なことを学ばせて頂けました。

そのおかげで自分の視野を広げられ、人の価値観は色々あるということを受け入れられるようになったと感じます。

そのあとは部長になるまでどのようなご経験を積まれたのでしょうか。

中村:民間のケアミックス病院で急性期からオペ室、地域連携室、療養病棟、外に向けて前方連携のことなど短いスパンでしたがいろいろなことを学ばせていただきました。

その後は名古屋徳洲会病院に師長として入職して、そのご縁で現在は当院の部長を務めております。

後編に続く

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