No.92 蒔苗 奈都代様(防衛医科大学校病院)前編:「手で触れ」「声をかける」看護師に必要なもの

インタビュー

今回は防衛医科大学校病院の蒔苗 奈都代看護部長にインタビューさせて頂きました。

部長として組織をまとめていらっしゃる蒔苗様の手腕に迫ります。

看護師は一生の仕事になる

看護師を選ばれたきっかけを教えていただけますでしょうか。

蒔苗:高校を卒業する直前まで進路を迷っていて、自分自身では先を決められずにいたのですが、父に「看護師という職業は一生の仕事になるから、やってみたらどう」と言われたのがきっかけでした。

看護学校で学ばれた中で、戸惑うことはありましたか。

蒔苗:まわりには「幼稚園や小学校の頃から、看護婦になりたかった」という人が多かったので、はじめは少しびっくりしました。

授業を受け、演習や実習を重ねていくうちに、何となく「こういう職業もいいかな」と感じるようになっていきました。

実際に実習に出ると患者さんと接することができますし、看護師とも関わりますから、そういった中でだんだん気持が変わっていったのだと思います。

実習の中で、印象に残っている患者さんやエピソードを教えていただけますでしょうか。

蒔苗:外科で受け持った患者さん、小児科で受け持った男の子、母性で受け持った経産婦さん、放射線病棟で受け持った患者さんなど、自分が受け持った患者さんのことは、やはりよく思い出します。

その中でも、最初に受け持った患者さんが特に印象に残っています。

泌尿器科病棟に前立腺肥大症の治療で入院されていた、目の見えないご高齢の方でした。

奥さんが一緒に付いていらして、何でもやってくださっていたので、学生として出来ることはコミュニケーションをとる程度だったと思います。

ですが、そのような関係性でも私のことを覚えて「足音で誰が来たかが分かる」「ほら、君が来たことはすぐに分かるよ」と言ってくださいました。

その実習は5日間ほどのとても短いものでしたが、そうした積み重ねが自分にとって糧になっていくのだと学ぶことができた、実りの多い実習だったと思います。

こちらの学校に通われたのでしょうか。

蒔苗:そうですね。

ただ、私が学生の頃は防衛医科大学校の中に看護学科はなく、3年課程の看護学校がありましたのでそこで学びました。

学生時代に培った仲間との強い絆

そうしますと自衛官になるための勉強もされたのでしょうか。

蒔苗:いえ、それはほとんどありませんでした。

現在は自衛官コースと技官コースが医学教育部看護学科の中にありますが、当時は別々の学校でした。

私が通った看護学校は「技官の看護師」になるための学校でしたが、それとは別に「自衛官の看護師」になるための3年課程の看護学校もあったのです。

「自衛官の看護師」になるための学校では、看護師に必要な知識や技術の習得も、隊員になるための訓練も行われ、様々な法律のことを学習していたと思います。

私が通った学校でも自衛隊の概要や、特別職国家公務員となるのでその役割について学んだ覚えがあります。

学生生活はいかがでしたか。

蒔苗:その頃は全寮制でしたので、常に友人と一緒で非常に楽しかったです。

みんなで御飯を作ったり、週末はみんなで遊びに行ったり、一緒に試験勉強したりしていました。

学生時代をそうして一緒に過ごした同級生のうち、1名は常勤として、1人は非常勤としてまだ一緒に働いています。

今年も秋に京都で同期会を開いて、20人以上集まり楽しく過ごしました。

同期会以外にも、近郊にいる人達で集まって半年に一回食事会をするなど、交流は続いています。

とても強い絆で結ばれていらっしゃるのですね。

蒔苗:やはり3年間同じ食事をして同じ勉強をして、楽しいことも苦しいことも一緒に経験してきた仲間ですから。

今でもその頃の話が出ると、当時に戻ったような気分になれます。

「手で触れ」「声をかける」看護師に必要なもの

卒業後はどちらの病院に就職されたのでしょうか。

蒔苗:卒業後はそのまま防衛医科大学校病院に就職しました。

最初に配属されたのは、整形外科等の混合病棟でしたから本当に様々な病態の患者さんがいらっしゃいました。

学生から看護師になった直後で辛かった事や、今とは違った事は何かございますか。

蒔苗:今でもスタッフ数はそれほど多くはありませんが、もっと看護師が少ない時代でしたので大変なことはあったと思います。

ですが、夜勤で夜中に出勤するのが辛いという事以外で、患者さんのところに行くのが嫌だとか、そうした気持ちを感じたことはありませんでした。

今思い返してみると、当時は今ほどいろいろな制限や決まり事がなかったように思います。

例えば守秘義務やカルテにしても手書きでしたし、今では当たり前のダブルチェックや氏名の確認などは自然にできており、ひとつひとつ細かく毎時教育指導を受けることはありませんでした。

ですから、その頃働いていた人たちは、結構器用に色々なことを考えて実行できる人が多かったように思います。

嫌な事がほとんど無かった、というのには驚きました。

人と関わることは元々お好きだったのでしょうか。

蒔苗:そうですね。嫌いではないかな、と思います。

対人関係が少し苦手、という看護師の方もいると思います。

そういう方に何かアドバイスはございますか。

蒔苗:なぜこの職業を選んだのか、ということを思い起こしてほしいです。

看護はパソコンでメールをとばし合うようなものではなく、必ず自分の手で触れ、言葉をかけるという直接的な行為です。

そうした行為には必然的にコミュニケーションが求められます。

それが自分にとって難しく、なかなか上手くできなかったとしても、その困難に向かっていくしかありません。

そう意識することが必要です。

また反対に、人を相手にしたときにはその人の良いところをよく見てあげて、引き出せるように「こういういいところがあるじゃない」などフィードバックしてあげることも大切だと思います。

「あのとき笑顔だったじゃない」とか「あの行動優しかったね」という言葉を貰って、自分でも振り返ることで、自信が持てるようになるはずです。

臨床経験を活かせた教員生活

就職後はずっとこちらの病院にお勤めなのでしょうか。

蒔苗:途中でここの看護学校の教員になり、その後外部に10年くらい出て、また戻ってきました。

看護学校の教員になられたのには何かきっかけがあったのでしょうか。

蒔苗:外科病棟にいた時に、「半年間位の研修で看護教員になれるコースがあるけれども、行ってみる気はないか」と声をかけていただく機会があり、興味を持ったのがきっかけです。

教員になった当初はすぐに病棟勤務に戻るつもりだったので、学生へ挨拶する時に「私は2~3年しかここにいないから、その間一生懸命に頑張ります」と話した記憶があります。

でも、一度始めてみたら教育者としての期間が非常に長くなりました。

どの科目を教えられたのですか。

蒔苗:はじめは基礎看護学からでした。

防衛医科大学校で教えていた2年間はほぼ基礎看護学だったと記憶しています。

他の学校に行ったときには、防衛医科大学校病院の精神科病棟で勤務していた経験を活かして精神看護学も教えました。

精神科で働いている看護師は現場で働きたいという人が多いようで、教員になる方はなかなか居なかったのです。

ですからお話を頂いた時は「是非」と引き受けました。

あとは成人看護学も教えていたことがあります。

教員の道に進まれると、そちらでも様々な看護分野に関わることができるのですね。

蒔苗:実習に関しては、母性看護学以外はほぼ全て行ったと思います。

在宅看護学でお宅に伺ったこともありますし、小児看護学では学生と一緒に2歳の子の頭を洗ってあげたこともあります。

現場での経験が15年ほどあったので、それが良い引き出しになったと感じます。

後編に続く

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