今回は芳賀赤十字病院の河原美智子看護部長にインタビューさせて頂きました。
河原看護部長の手腕に迫ります。
「看護師になりたい」が実現する
看護師になろうと思ったきっかけをお聞かせ頂けますか。
河原:当初は、あまり深く看護師に憧れがあった訳ではありませんでしたが、中学3年生の時に担任の先生から弁論大会を勧められたことがきっかけだったように思います。
将来の職業についてということでしたが、当時祖父の妹が県北にある大田原赤十字病院で助産婦として働いていたこともあり、その弁論大会で私は「看護師になりたい」と話しました。
中学生だった当時はあまり看護師の教育制度について理解していませんでしたが、弁論大会で話した「看護師になりたい」がそのまま進み、地元の衛生看護科のある高校に進学しようと考えました。
そこで担任の先生に相談すると、高校の衛生看護科ではなく普通科に行き看護師の教育を受けて、看護師になった方が良いのではないかという助言を頂き、当時助産婦だった大叔母が赤十字病院で働いていたため、赤十字の看護専門学校に入学し看護師になりました。
そして子どもの頃ですが、私の祖母が脳梗塞になり、母や祖父が中心となり家族介護を行い寝たきりの祖母の在宅療養を支える姿をみていたことも看護師になろうと思ったきっかけの一つに感じています。
寮生活から生まれた阿吽の呼吸
看護学校の教育で役立ったことはありますか。
河原:当時は良く理解していませんでしたが、看護師として勤務していくうちに、寮生活の中で営まれた教育が役立ったように思っています。
赤十字の教育では、救護の十訓を毎週朝礼で述べることがありましたが、実際看護師になり本当に災害が起き、救護活動をする時に寮生活での3年間が基礎になったように思います。
寮生活での学びは先輩との共同生活などで育まれたのですか。
河原:1年生の時には同学年4人で1部屋ということで1年間過ごしました。
2年生になった時には、私たち同級生2人と下級生の2人で1人部屋でしたが、3年生では実習が多く、国家試験の勉強もあるため同学年のみの部屋で過ごしました。
生活の面では、朝と夜に廊下に並び挨拶や点呼があるなど、様々な規則がありました。
お風呂でも「今から入ります」「お先に失礼します」と挨拶をし、先輩よりも後に入り先に出るなど、今ではあまり考えられない時代でした。
昨日私は、東京でフローレンス・ナイチンゲールの受章式に参加しましたが、名古屋第二赤十字病院の看護部長である伊藤明子さんが受章され、「全寮制の中で基礎教育を育まれた」「今の自分を作ってもらえた」と話されていました。
やはり看護師を続けていく中で、救護班での活動など団体行動で阿吽の呼吸ができるのは、これらの経験があったからと今になって感じています。
その時々で時代の流れを感じますか。
河原:私たちの時代とは違い、今の看護大学ではグループディスカッションやグループワークなどを行いながら、思考が構築されていくのだと思います。
看護学校を卒業される時には勤務先は決められていたのでしょうか。
河原:委託生のため学校への入学時に、卒業後に働く病院は決まっていました。
栃木県には赤十字の教育施設がなかったため、群馬県の原町、前橋の二つの病院、栃木県では芳賀、大田原、足利の三つの病院が前橋赤十字看護専門学校で教育を受けました。
そして栃木県で試験を受け、合格すると芳賀、大田原、足利のどこで働くのかということが決められ、卒業後は最低でも3年間はそこの病院で勤務するという決まりになっていました。
中には3年で退職される方もいましたが、私の場合はずっと大田原赤十字病院で働き、新築移転の際に名称変更し那須赤十字病院となり、その後こちらの病院へ看護部長として移動しました。
「看護師は泣いてはいけない」という思い
看護師になった当時に印象に残っている患者様のエピソードはございますか。
河原:入職当時は外科病棟に勤務していましたが、良性疾患で手術される方もいれば、悪性疾患で手術される方もいました。
当時、膵臓の手術をされた患者様だと思いますが傷の治りが悪く、膵液が漏れ出てしまうため、1時間や2時間ごと、本当に頻回にガーゼ交換をしていました。
その時は最後の最後まで患者様自身も本当に頑張られましたが、亡くなってしまい救いたくても救えないこともあると感じたことを今でも覚えています。
夜間は看護師だけでガーゼ交換を行いましたが、患者様の痛みを思うと苦しく、その度に浸出液が少ないことを祈りました。
何をしても傷は塞がらず、当時は新人ながらにとても辛さを感じました。
看護師になった時は、潜在的に「看護師は泣いてはいけない」という思いがあり、辛さを抱えながらも辛いと言うことができませんでした。
そして患者様の御臨終の時には、ご家族と一緒に涙を流したいという思いを持ちながらも「泣いてはいけない」「凛としていなければいけない」と考え10年ほど務めました。
しかし「看護師も悲しい時はご家族と一緒に泣いてもいい」「我慢せずに、ご家族の痛みや苦しみを理解することも大切」だと先輩看護師に教えて頂きました。
「泣いて本音が言える看護師になりたい」「そのような看護師を育てていきたい」という先輩看護師に巡り会い、ふっと息が抜け、私たちも感情を出しても良いということを習いました。
たくさんの先輩方が教えて下さり、今ここにいるのだと感じています。
教育だけではなく、言葉かけなど交流の中で生まれた学びもあったのでしょうか。
河原:今も歓送迎会や暑気払い、送別会や忘年会など大きな行事はありますが、当時は仲間との食事や飲み会などを頻繁に行い、気晴らしをしながらも、たくさんの意見交換をしていたように思います。
病院内での異動や退職などもあり、私自身も外科病棟の後、整形外科病棟へ異動しましたが、今でも医師も含め1年に1回は集まり仲間と今の気持ちや思いを語り合っています。
整形外科病棟の後は、どちらで勤務されたのでしょうか。
河原:赤十字の幹部看護婦研修所で1年間研修を行い、その後内科病棟で勤務しました。
その後も小児科、脳神経外科、循環器内科、混合病棟を経験し、救急外来、ICU病棟の師長をさせて頂きました。
医師やコメディカルの方々の含め、それぞれの良さや学びがあり成長させて頂いたように思います。
看護管理者としてのスキルアップ
どのようにして、管理職の道に進まれたのですか。
河原:大田原赤十字病院、那須赤十字病院時代は看護係長、看護師長、看護副部長、看護部長という組織構成になっています。
私は外科病棟、整形外科病棟で合計9年間勤務し、その後出産や1年間の研修期間などを経て、内科病棟で係長になりました。
その後は、看護係長として、内科、小児科、脳神経外科を経験し、脳神経外科病棟で師長になりました。
しかし、師長になり1年目の時に、看護係長とは違い、一つの病棟を任される責任に辛くなった時期がありました。
自分には知識や技術、看護管理者としてのスキルも少ないと感じていた時に、先輩から、大学院で学ぶことでもう少し視野が広げられるのではないかと提案して頂きました。
私生活の面もあるため働きながら学びたいと相談すると、看護部長さんより、夜間の管理師長として夜勤を行いながら学ぶことを提案して頂きました。
そして2年間休職することなく大学院で学ぶことができたため、看護部長さん、副部長さん、師長さん方のご協力やご支援があり、今があると思っています。
大学院での実際の学びはいかがでしたか。
河原:大田原校では、看護管理の大学院生として6名在学していました。
国際医療福祉大学ではテレビ中継を行っているため、福岡校や東京校など初対面の方々と意見交換ができ、それぞれのキャンパスの先生の講義を受けることができました。
大田原校の看護職院生6名は様々な背景を持った大学院生でしたが、みんなで研究費を集めて、著名な先生に大田原校へ来て頂き、ゼミを開催して頂き、看護論を含め様々な事柄を学ぶことができたりと、一人では考えが及ばないことをみんなが発案してくれ、一緒に学ばせて頂いた2年間でした。
「受け身の自分」への変化
大学院で学び、病棟へ戻られてからの変化はありましたか。
河原:大学院へ行く前は、どうしても「私は師長だから強く完璧でいなければ」というような思いがありました。
しかし、たくさんの方々と学び、考え方を知り、受け身の自分でいられるようになったように思っています。
「自分はこうしたい」という思いはあっても、それをどのようにすれば具体的な形になるのか、一緒に考えてくれる係長がいて、そして係長やスタッフの意見を聞くことで、「こうでなければならない自分」ではなく、「受け入れる、受け身の自分」に変わることができたように思います。
また、救急外来を中心とした夜間管理師長なので、夜勤の間にいろんな病棟の巡視でスタッフの意見を聞いたことも学びになったと思っています。
周りのスタッフから支えられた部分もございますか。
河原:やはり直属の師長ではないからこそ、スタッフが話してくれることもあったように思います。
師長になった時は、本当に気負いしていたため、係長さんや、周りのスタッフの意見を吸い上げる力がありませんでした。
循環器病棟へ戻った時に病院機能評価を受けましたが、私が「こうしたい」と一声発すると、2人の係長がたくさんの意見を出してくれ、私が1、2を言えば10まで先を見越してやってくれたように思います。
当時の環境は恵まれていたと思いますが、このような阿吽の呼吸で頑張ってきたことも、少しずつ自信に繋がり自分の財産になっていると思います。
後編へ続く
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No. 58 河原 美智子様 (芳賀赤十字病院) 後編:受け継ぎ、繋がっていく