No.259 横浜南共済病院 長岡章平 院長 前編:バンドマンからドクターに

インタビュー

 

横浜南共済病院の院長、長岡章平先生は医学生時代バンドに夢中になり、かなりの腕だったとのこと。

そして卒業後はバンドへのその情熱を免疫学の研究につなげて行かれたようです。

インタビュー前編では先生のご経歴を中心に伺いました。

 

Tシャツ、ジーパンで学会参加

 

中:今回は横浜南共済病院病院長の長岡章平先生にお話を伺います。

まず貴院の特徴を教えていただけますか。

 

長岡:当院は横浜市南部地域の基幹病院として高度急性期医療を提供している病院です。

横浜市南部地域からはもちろんですが、逗子・葉山地区、鎌倉、横須賀、三浦地区などからも

沢山の患者さんが来院されています。

 

 

中:建物の改築工事が進捗していますね。

 

長岡:メインの病棟はほぼ建て替えが終了し、一部の病棟と外来棟の建て替えを数年以内に検討しています。

 

中:そうですか。楽しみですね。

それではこれから、先生のご経歴、病院長として取り組まれていることなどをお尋ねしてまいります。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

長岡:よろしくお願いします。

 

 

中:まずご経歴に関することで、先生は膠原病・リウマチ領域を専門とされていますが、

それはどのような背景がおありだったのでしょうか。

 

長岡:実を申しまして、自分の専門領域をどうするかという時も含め、

これまでの人生で何かを自分で決めたことはあまりありません。

流れに身をゆだねるというのが好きです。

 

 

進路選択も先輩に飲みに連れて行ってもらい、強く勧誘されて決めたようなところがあります。

「膠原病の分野は学会参加もスーツにネクタイを締めなくて大丈夫。お前みたいにTシャツとジーパンの奴がたくさんいるから」

という誘い文句を信じてしまいました。

 

 

中:学生時代はTシャツとジーパンで過ごされていたのですか。

 

長岡:バンドをしていましたので。

髪はソバージュにし、靴はヒールの高いブーツを履いていました。

私はちょうどビートルズ世代で、高校の時は学園紛争で学校閉鎖です。

勉強したくてもできない状況でしたのでバンドの練習を始め、

大学時代はスナックなどで演奏して小遣いを稼いでいました。

 

 

中:インタビューの最初から興味深い話ですね。

バンドではどのパートを?

 

長岡:ベースが多かったですね。

独学でギターを弾いていました。

自分で作詞作曲をして、ポピュラーソングコンテスト関東甲信越大会に出場できたことは良い思い出です。

谷山浩子さんが優勝した会でした。

 

 

しかしそれ以上を目指すこともなく、バンド仲間も徐々に抜けていってしまいましたので、

結局、私も医学の道に集中し大学を卒業しました。

もっとも、卒業後も服装は昔のままでしたが。

 

免疫学の躍進とともに

 

中:そこで先ほどおっしゃった、学会参加のスタイルの話に繋がるのですね。

膠原病領域では、なぜインフォーマルな服装が許されたのでしょうか。

 

長岡:その頃は免疫学という学問がまさに新しく動き出した時期でした。

今ではわかりきったことですが、リンパ球にT細胞とB細胞があることも、

私がちょうど卒業する時に明らかになったことです。

 

 

「免疫が関係する病気はみんなリンパ球、T細胞、B細胞で説明できそうだぞ」

と先輩に教えられたものです。 

そのような新しい領域ではあまり上下関係は問題にされません。

新人でも自由に意見を述べることができました。

服装をあれこれ取りざたされることもありませんでした。

 

 

中:医学の新しい分野を開拓していくという挑戦に、関係者全員の期待感がみなぎっていたのですね。

 

長岡:その情熱しかなかったです。

古くからある他の領域では、すでに学問の体系が出来あがっていますので、

新人は階段を登るように先輩の指導を仰ぎながら研究を深めていきます。

当然、ネクタイを締めていなければ相手にされません。

しかし当時の免疫学は革新的な発表であれば、

Tシャツとジーパンで髪が長くても上の人との討論に参加できました。

 

 

中:では、卒業されてから、免疫学をはじめとする医学の勉強に邁進されたのですね。

 

長岡:学生の時に全く勉強していなかったので、研修医のときは結構勉強しました。

 

中:話題が前後しますが、先生が医学部に進学されたのは、どのような理由があったのでしょうか。

 

長岡:その質問にはいつも困るのですが、先ほどの専門領域選択の話と同様に、

具体的な動機はあまりないのです。

 

 

強いて言えば、私は東京で育ったため東京以外の千葉か埼玉か横浜で過ごしたい

という思いで受験先の候補を挙げました。

その中で「最もおしゃれ」という理由で横浜を選び、学費の安い横浜市大に進学したという経緯です。

在学中の6年間、ほとんど大学に行きませんでした。

全く自慢することではないですが。

 

 

中:バンドに勤しんでいらしたのですね。

その頃の記録は残っていませんか。

 

長岡:写真はみんな捨てました。

家族、特に子どもに見られるのは嫌なので、ギターもろとも全部破棄です。

捨てて人生一からやり直しました。

 

突然のように院長就任

 

中:では元の話題に戻り、卒業後のご経歴をお聞かせください。

 

長岡:大学に8年ほど席を置き、その後は関連病院に勤務しておりました。

膠原病そのものがそれほど多い疾患ではないため、

どこの病院に行っても総合内科的にさまざまな疾患を診ておりました。

当院に赴任するまで、国立横須賀病院、現在の横須賀市立うわまち病院に勤務していました。

 

 

中:院長に就任されたのはどのようなタイミングだったのでしょう。

 

長岡:歳を重ねてきますと、患者さんに寄り添った理想的な医療を実現したいと考えるようになり、

開業を意識し始めました。

そうしたところ、突然のように前院長から、「長岡君、どうだ?」という話をいただき、

あれやこれやとあったのですが、バトンを受け継ぐことにしたという次第です。

 

 

後編に続く

Interview with Toan & Carlos