No.222 霞ケ浦医療センター 鈴木祥司 院長 前編:存続の危機からリバイバル

インタビュー

国立病院機構の病院の一つとして茨城県南部の医療ニーズに応える霞ケ浦医療センター

現在、産科医療や人材育成に先進的な取り組みをされていますが、一時期は存続の危機もあったようです。

その危機からのリバイバルを牽引してきた院長の鈴木祥司先生に、詳しくお話を伺いました。

全国141箇所の国立病院機構ネットワーク

嶋田:本日は霞ケ浦医療センター院長の鈴木祥司先生にお話を伺います。

先生、どうぞよろしくお願いいたします。

鈴木:よろしくお願いいたします。

嶋田:まず貴院の特徴を挙げていだけますか。

鈴木:当院は全国に現在141箇所ある国立病院機構の病院の一つです。

国立病院機構は各県に2〜3箇所ずつ、国の医療政策の拠点として、

あるいは地域医療を支える拠点として開設されています。

茨城県には一県一医大構想により新設された筑波大学があり、

当院にも筑波大学附属病院の地域臨床教育センターが併設され、大学の教官が診療や教育をしています。

ただし病院としての歴史は当院の方が古く、前身は昭和16年創立の霞ヶ浦海軍病院に遡り、

戦後、国立霞ヶ浦病院となり、地域の方々から「国立病院」あるいは「霞病」と

愛着を持って呼ばれていたと聞いています。

平成16年に独立行政法人化されました。

嶋田:80年近い歴史があるのですね。

鈴木:元海軍病院ですから東郷平八郎の屏風など歴史的な遺物もいろいろあり、

歴女のみなさんが写真を撮りに訪れたりします。

昔はたいへん格式の高い病院で「敷居が高い」と言われていた時代もあったようですが、

今は全くそのようなことはなく、地域住民に親しまれています。

存続の危機を乗り越え

嶋田:長い歴史もあって、地域に根付いた病院になったということでしょうか。

鈴木:平成16年の新臨床教育制度スタート後、大学の医局が医師引き上げを行ったため、

全国的に市中病院の医師不足が起きたことがありました。

当院も医師数がそれまでの半数以下と危機的な状況となり、

一時は他院と統廃合されるのではないかという話も出ました。

その時、当院の看護師たちが「自分たちに何かできることはないか」と考え、自主的に

地域の患者さんのレスパイト入院、つまり普段ご自宅で患者さんを介護されているご家族が

疲れを癒していただくための、患者さんの一時的な入院の受け入れを開始しました。

その活動も影響したのか「この病院は地域になくてはならない病院だ」という声が上がり、

ついには内閣総理大臣に存続の陳情書を提出するという住民運動にまで発展しました。

それだけ地域から愛された病院です。

このような流れの中、筑波大による当院支援が始まり、私が派遣されという経緯があります。

嶋田:当初から院長として着任されたのですか。

鈴木:初めは副院長で、2年後、48歳の時に院長に就きました。

当時、全国の国立病院の中で一番若い院長とのことでした。

自分の腕で患者さんを救うことができる幸せ

嶋田:先生のご経歴を少し詳しくお尋ねしたいのですが、

まず医師になろうとされた動機をお聞かせください。

鈴木:私は7人兄弟で弟がいます。

弟を身ごもった時に母親が風疹にかかってしまい、弟は聴覚言語障害を持って生まれました。

障害のある子どもが将来、自立して生活できるようにと、両親はことのほか弟の躾を厳しく育てるとともに、

母親自身も向後に備え、歯科医師である父親同様に歯科医師免許を取ろうと

48歳から大学に通い始めていました。

そのような家族全員が支え合おうという雰囲気の中で成長したためか

「弟も含め、人の役に立つことをしたい」という思いが強くなり、医師を目指したというわけです。

嶋田:ご専門とされる領域はどのように選ばれましたか。

鈴木:私の専門は循環器内科です。

循環器内科を目指した理由は、

自分の力で患者さんを助けられるからです。

初期研修医の頃、がん患者さんを担当する機会が多々あったのですが、当時はがんの治療手段が少なく、

寝ずに頑張って診ても結局のところ患者さんは亡くなってしまい、看取るのが忍びない

という思いがありました。

同じ頃、循環器内科に進んだ部活の先輩から

「重篤な患者さんを自分の力で回復させて、患者さんは元気に社会復帰していくんだ。

こんなすごいことはないよ」という話を聞き、私も循環器内科を目指しました。

人材育成と女性医療の推進

嶋田:少し質問が前後しますが、大学はどちらでしたか。

鈴木:秋田大です。

卒業を控え同級生が「茨城県に面接に行くので一緒に来てくれ」というのでついて行ったのがきっかけで

筑波大で研修を受けました。

その後、国立循環器病研究センターに勤務したり、2年ほどロサンゼルスに留学したりしましたが、

ほぼ茨城県内で働いています。

嶋田:茨城県内の医療に長く貢献されてきたのですね。

貴院の院長に就任された時、課題として意識されたことや掲げられたモットーなどはございますか。

鈴木:茨城県は人口あたりの医師・看護師数が全国最低ランクで、

各々が自分の仕事だけをしていたのでは現場が回りません。

組織力、マネジメント力が要求されます。

それが一番の課題だと認識しています。

また、前院長の西田正人先生が産婦人科でしたので女性患者さんが多いという特徴があり、

それを引き継いで、女性患者さん、女性職員に優しく丁寧な医療を目指すことをスローガンとしました。

医師・看護師を他県から呼び込む

嶋田:医師・看護師不足はやはり深刻な課題ですか。

鈴木:東京近郊ではこれからますます高齢者が増加し医療や介護需要が増える反面、

医療・介護の担い手は東京に流出してしまう可能性もあります。

県内で医師や看護師の奪い合いをしていても仕方がないので、全県をあげて魅力ある病院作りを進め、

逆に東京や他県から人材を茨城へ集めることを狙っているところです。

嶋田:貴院ではどのような具体的活動をされていますか。

鈴木:一つは、当院に筑波大学附属病院の臨床教育センターが併設された経緯にも表れています。

在宅医療・在宅介護の推進がいま課題になっていて、当院も基本的には急性期病院ではあるものの、

実は昭和50年代という非常に早い時期から、地域医療カンファレンスを全国に先駆け開催してきています。

これは、当時の当院のドクターが、退院後に肺炎で再入院されたり、核家族のために退院できず

社会的入院となる患者さんが増加している状況を危惧し、まだ存在自体が珍しかった

ケアマネジャーや訪問看護師、そして行政担当者もまじえてスタートしたカンファレンスです。

これが在宅医療・介護の支援事業のきっかけとなり、筑波大としても当院のこのような経緯を考慮して、

急性期から在宅医療・介護までの流れを学ぶための臨床教育センターを当院に設置しました。

以前は医師も看護師も、患者さんの疾患を治すことが中心の医療でしたけれども、今は「治す」だけではなく

「支える」ことが欠かせず、それをマネジメントができる指導者を育てることが求められています。

後編に続く

Photo by  Carlos