No.203 埼玉医科大学国際医療センター 小山勇 院長 前編:患者中心を徹底した大学病院

インタビュー

医局を設けず診療科も標榜しないという特徴的な診療体制の埼玉医科大学国際医療センター

病院長である小山勇先生に、そのような特徴の背景をお尋ねしました。

高度急性期医療に特化した大学病院

中:今回は埼玉医科大学国際医療センター病院長の小山勇先生にお話を伺います。

先生、まずは貴院の特徴を教えてください。

小山:当院は存在自体がたいへんユニークで、

日本の大学病院として一つのチャレンジを続けている病院と言えます。

他の大学病院とは少し異なります。

と申しますのは、ここから2.5キロメートルほど離れた場所に1,100床以上を擁する埼玉医科大学病院があり、

そこからがんと心臓病、脳卒中を含む救命救急という高度急性期医療のみを

当院に移すかたちで開設したという経緯があるからです。

また埼玉医大には、ここからもう少し離れた川越にも総合医療センターという1,000床規模の大学病院が

別にあります。

そちらは高度救命救急や周産期のセンターであるとともに

市民病院的なジェネラルホスピタルとして機能している病院です。

中:そうしますと貴院は埼玉医大の大学病院群の中でも、

特に高度な機能のみを集約して行っているということですね。

小山:それだけでなく、もう一つの大きな特徴は、開設当初から医局制を敷いていないことです。

外来受付として標榜している診療科もなく、外来の窓口は三つだけです。

中:大学病院で医局がないとは珍しいですね。

診療等はどのようになさっているのですか。

小山:がん診療については「包括的がんセンター」の窓口があるのみです。

その外来の受付は一つで、25ほど診療室が並んでいます。

呼吸器、消化器、頭頸部、婦人科、泌尿器等あらゆる部位・系統のがん治療を、すべてそこで診察します。

また心臓や脳卒中に関しては循環器系の外来がやはり一箇所に集約されていて、

外科的治療、内科的治療、血管内治療、神経内科、小児循環器科などの医療を一手に対応します。

もう一つの外来は「通院治療センター」といい、抗がん剤を受けている患者さん向けの窓口です。

そこも臓器別にはしていません。

コアバリューはPatient Centered Medicineの徹底

中:医局がないとなりますと、先生方はふだん外来・病棟以外でどのように過ごされているのでしょうか。

小山:ふだんは教員棟にいます。

講師以上には資格により4人で一部屋、2人で一部屋、あるいは個室部屋があり、

助教や研修医は250人ほどが大きな一つの部屋で机を並べています。

その配置は、同じ専門のスタッフ同士が隣にならないように配慮しています。

中:専門領域が同じ医師の机がかたまっていた方が情報共有に有利だと思いますが。

小山:当院は「Patient Centered Medicine」をコアバリュー(価値観の中核)としています。

「患者中心の医療」を徹底するには組織が横につながっていなければなりません。

この発想に基づけば、机をまとめて独立したグループを作らない方がよく、

医局も必要ありませんし、病棟に内科・外科の区別もありません。

病院側が設けた診療科に患者さんが訪れるのではなく、

訪れた患者さんに必要とされる医療技術を持ったスタッフが患者さんのもとに集まるという考え方です。

中:なるほど。

専門領域が異なるスタッフ同士が近くにいた方がコミュニケーションも良くなるかもしれませんね。

小山:専門が同じスタッフは何もしなくても必要があれば自然に集まりますが、

専門が異なるとその機会は極端に少なくなります。

そこで当院では机の配置を分散させるだけでなく、

一つの診療科のみでのカンンファレンスは絶対しないことにしています。

必ず複数の診療科の医師やコメディカルスタッフが出席した上で行います。

中:以前、貴院と同じようなシステムをとっている病院がロサンゼルスにあるという話を

耳にしたことがあります。

小山:アメリカの大学病院は日本より先進的ですが、

それでもまだ部門性を敷いている病院がかなりあります。

我々は完全に大学の運営とは離れた診療体制を築いています。

例えば埼玉医大における役職と当院での位置付けは全く連動しません。

つまり大学の教授が当院の診療部長というわけではなく、

実際に泌尿器腫瘍科の現在の診療部長は講師の先生です。

教授の先生の職務は大学における教育がメインで、当院での臨床は講師の診療部長のもとで行います。

中:それも先進的ですね。

小山:「Patient Centered Medicine」をコアバリューとして病院を組織立てると今のかたちになります。

このような大学病院は当院以外になく、そのため当院には全国各地の大規模病院からの見学が絶えません。

当地は東京の都心からかなり離れているにもかかわらず、がん登録患者数が全国の全医療機関中5位で、

大学病院ではトップです。

脳卒中に関しては登録制度がないので正確にはわかりませんが、常に110名前後入院されていて、

やはり全国でトップクラスだと思います。

自他ともに認めるハイボリュームセンターです。

また、ハイボリュームであるとともにハイクオリティーであることを証明するため、

医療の質を評価する国際認証制度であるJCI (Joint Commission International)の認証を

全国の大学病院で初めて取得しました。

これも当院の特徴の一つです。

世界を舞台に仕事ができる外科医を目指して

中:ここで話題を先生ご自身のことに変えまして、少し質問させていただきます。

まず、医学生時代にどのように過ごされたかお聞かせください。

小山:私は昭和52年卒業ですから学生運動の時期と少し重なります。

多くの学生が授業をボイコットしていた時代です。

授業には数人しか出席していないこともありました。

そのせいかのんびりしていました。

医師国家試験も今ほど厳しくなく、スポーツをする時間もありました。

私は6年間サッカー部に所属していましたが、関東医歯薬リーグの1部で優勝するなど結構強いチームでした。

ただ、医学の勉強がとても面白く、サッカーの練習で疲れて帰宅してからでも楽しんで勉強していました。

なお、今の埼玉医大の学長は大学の同級生で、当院で偶然再会しました。

学生時代、彼とはよく一緒に英語の医学文献を読んで、ディスカッションしたりしていました。

懐かしい思い出です。

中:卒業後はどのようなご経歴でしょうか。

小山:当時は今のような研修制度がなかったため、多くの学生は卒後も大学に籍を置いていました。

しかし私は外科医として自立するため外に出ました。

血気盛んだったのですね。

米国式のレジデント制度を国内にいち早く導入したことで有名な三井記念病院で5年間腕を磨いた後、

渡米しジョンズホプキンス病院のリサーチフェローとして研究に従事しました。

中:お一人でアメリカに渡りチャレンジされたのですね。

小山:日本だけでなくて、世界と戦おうと考えていました。

ただ、現地に着きますと初めの頃は英語も上手くしゃべれずに

「I cannot understand what you say」などと言われて苦労しました。

それでも結果として3年半の間に一流誌に論文が3つ掲載されました。

ただ、米国での研究や臨床に慣れてくるうちに、手術の技術に関しては

自分が三井記念病院で習得したレベルとあまり変わらないことがわかってきたこともあり帰国しました。

帰国後は、三井記念病院のOBで当時まだ若く元気なスタッフが多かった埼玉医大に着任し、

30年以上勤めています。

後編に続く

Interview Team