No. 62 日越 恵美子様 (黒沢病院) 前編「自分で選んだ道だったので、挫折はしたくなかった」

インタビュー

今回は黒沢病院の日越恵美子看護部部長にインタビューさせて頂きました。

日越看護部部長の手腕に迫ります。

「自分で選んだ道だったので、挫折はしたくなかった」

看護部長が看護師になると思った動機についてお話をいただけますか

日越:高校生の時に職場見学で県立病院に行きました。

そこで働いていた看護師さん達の姿が本当に素敵で、患者さんに接している優しい姿や、凛としている姿をみて憧れに変わりました。

私の父は職人であり、父の姿やその仕事に携わる方々と接しながら育ったため、自分も資格職になりたいと思い、看護師になることを決意しました。

看護学校で思い出に残っているエピソードはありましたか

日越:高校卒業後は准看護学校へと進み、卒業後は准看護師として働きながら、夜間の高等看護学校に通いました。

夜勤勤務後は、疲れ果て寝入ってしまい、先輩方に「学校に遅刻するよ」とよく起こされました。

寮生活では先輩方に厳しく指導もされましたが、大人社会の色々なことも教えていただきました。

食事や飲み会にもよく連れて行っていただき、今思えば楽しい学生時代でした。

外科系の病院だったため救急車の受け入れ台数も多く、夜間もよく呼び出されました。

緊急手術などに対応していると、帰る頃には朝陽が昇っているようなこともありました。

同じ釜の飯を食べた仲間達とは、今でもお付き合いが続いています。

仕事と勉強を両立させる事が出来た秘訣はありましたか

日越:秘訣は「必死にやる」です。

自分で選んだ道だったので、挫折はしたくありませんでした。

寮生活で先輩方や同期に支えられ、乗り越えられたと思います。

一人では挫折していたのかもしれません。

看護師になり、病院はどのようにして選ばれましたか。

日越:育てて頂いた病院で17年間ほど勤務しました。

その間に結婚、出産をし、産休のみ取得して保育園に預けながら勤務を続けました。

長男が小学校入学の時に次男の出産が重なったためここで一旦退職しました。

しかし、育児に追われる最中も医療・看護が進歩して知識や技術が追い付かなくなることに不安を感じ、結果2年ほどで同じ病院に復職しました。

学生ではなく看護師として病院に就職した時、戸惑いや、楽しかったというエピソードはありますか。

日越:アットホームな病院で本当にたくさんの経験ができました。

外科、整形、脳外、手術室、外来で勤務し、さらに学生指導もさせていただきました。

まさにこの病院が私の「原点」です。

なかでも次のエピソードが印象的でした。

検査入院された30代の患者さんから「俺、癌だったらどうしよう」と言われ、当時新人看護師だった私は何も答えることができませんでした。

検査の結果、進行がんと診断され、すぐに様態は悪化しました。

奥さんが出産間近で思うように付き添いもできなかったため、看護師が代わりに話を聞き、体を摩るなどのできる限りのケアをしました。

奥さんの出産日に急変し、「俺がこんな体じゃなかったら・・・子どもの顔見たかったな…」とこぼされました。

その話を聞いた患者さんのお父さまが、生まれたばかりの赤ちゃんの写真をポラロイドカメラで撮影し、駆け付けました。

患者さんはその写真を見て涙をこぼしながら、息を引き取りました。

患者さんの切ない思いを受け止めきれず、号泣したことを覚えています。

同じ病院に長く看護師として働いてこられましたが、なぜ転職されたのでしょうか。

今までの経験を次に活かしたい、自分の力を試したい、一度世の中を見てみたいという気持ちになりました。

特に訪問看護をやってみたいと思っていました。

看護学校時代の先生に相談したところ、当時、先生が黒沢病院の看護部長を務めておられていたこともあり「長年勤めた所を退職してまでやりたいのであれば、うちに来なさい」と誘っていただき、訪問看護の管理者として勤務させていただきました。

「我々は病気だけを治せばいいわけではないと教わった」

訪問看護ではどのような経験や、どのような思いを持たれましたか。

日越:実際には訪問看護はまったく知らない世界であり、介護保険に切り替わるタイミングでもありました。

また、訪問看護ステーションも立ち上げたばかりで軌道に乗っていない状況でした。

そのような中、自ら積極的に学び続けました。

そしてわからないことや自力で解決できない問題があれば、他のステーションに出向き教えを請いました。

一緒に働く医師の中には、「お前たちに何ができる?」と言わんばかりに怒ったり、非協力的な方もおりました。

しかし、地道に努力を続け、院内研修などでアピールを続けていく中で、少しずつ理解と信頼を得られるようになり、在宅での看取りもできるようになりました。

訪問看護では、他職種との連携を学ぶたくさんの機会を得ました。

訪問看護勤務時代にとても感動したお話があります。

その方は自力で起き上がることができませんでしたが、お独りで生活されていました。

とても頭がしっかりされていて、冷蔵庫の中のものをすべて把握しており、「何段目には何があり、おにぎりは何個残っている。

そしてどこの引き出しに何がある」といったように全て頭の中に入っていました。

また、その方のご近所さんも素晴らしかったです。

朝、50代の男性が「おはようございます」とあいさつに寄り、カーテンを開け、お湯を沸かしお茶を入れる。

本人に代わりお仏壇にお線香をあげ、そこから「行って来ます」と出勤する。

「ただいま」と帰宅し、用事の有無を確認し自宅へ帰る。

また、近所のお年寄り方が遊びにいらしてくださったりもしていました。

ご近所の方々がここまでしてくださることに驚きました。

こうして人は人に支えられ、人は人を支える。

このような形で療養生活が成り立っていることに感動しました。

地域の連携というよりも、地域みんなで支えるというものだったのですね。

日越:ご家族も市内にお住まいでした。

しかし、「母親がご近所の方と一緒にここで住みたい、ならば希望通り暮らせるようにしてあげたい」とおっしゃっていました。

看護学生や医師の実習生が来た時にはその方の元へ必ずお連れしました。

病気を抱えながらも人は力強く生活できることを見て、我々は病気だけを治せばいいというわけではないと教えられました。

「現場を汲んで働きやすい職場をつくる」

そのような経験を踏まえられた後に訪問看護から、病院の管理職に入られたのですか。

日越:いえ、一度体調を崩したこともありいったん退職し、その後他院で5年間師長職に就きました。

その病院では、患者さんがなかなか在宅につながらないなどの問題がありました。

そこで、訪問看護時代に連携を図ってきた方々に声をかけ、相談に乗っていただき在宅につなげるように取り組みました。

その後、副看護部長兼病棟師長として当院に再就職をしました。

初めに訪問看護をされた後、病棟に入った時に違いなどを感じられることはありましたか?

日越:スタッフ数の多い病棟の師長として働くこと、さらに副看護部長という立場で「自分は何をしたらいいのか」と本当に戸惑ったことを覚えています。

師長職をされてからは、次は部長職になられたのですか?

日越:5年間ほど、副看護部長を務め、看護部長へは前任の部長さんの退職を機に就任いたしました。

役職が変わることでのプレッシャー等はございましたか?

日越:もちろんプレッシャーでした。

発展する病院の中で、経験のない私が看護部長としてやっていけるかと、怖さの方が正直大きかったです。

どのように乗り越え、前向きに捉えていかれたのでしょうか。

日越:まず理事長、副理事長をはじめ、周りの部長職がサポートしてくれたことが心強かったです。

それから私自身が看護の現場上がりで、現場が分かるからそこで働くスタッフの気持ちも分かります。

だからこそ、その気持ちを汲んで皆が働きやすい職場を作れるように部長として頑張ろう、という強い思いがありました。

本当は現場で仕事することが好きなので、患者さんと接する方が自分には性に合っていると思っていますが、部長職になった以上「やるしかない」という気持ちでした。

看護部の理念は、「笑顔・優しさ・思いやり・心のこもった信頼される看護」です。

その理念と理事長の「医は美心なり」という思いをもって、看護師として人として温かい病院を運営していきたいと常に考えてきました。

後編へ続く

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