No.215 獨協医科大学病院 平田幸一 院長 前編:ドイツ留学とスイス留学

インタビュー

獨協医科大学病院病院長の平田先生は高校時代にドイツへ留学されたことが、

医師を目指す間接的なきっかけになったとのこと。

医師になられてからのスイスご留学経験とともに、先生の半生に少なからず影響を及ぼしているようです。

地上設置型ヘリポート

中:今回は獨協医科大学病院病院長の平田幸一先生にお話を伺います。

まず貴院の特徴を教えてください。

平田:1,195床という特定機能病院の中でも有数の規模であることが一つの特徴と言えるかと思います。

また、開設後の早い時期からドクターヘリとヘリポートを備えていることも特色で、

しかも建物の屋上ではなく地上にヘリポートを設置しています。

地上設置型ヘリポートが優れているのは、

ドクターヘリだけではなく自衛隊のヘリや防災ヘリなど非常に重い機体でも離発着可能だという点です。

天皇陛下が那須に行幸される際には当院が緊急時の搬送先に指定されます。

幸いなことに、使用された実績はありません。

中:ありがとうございます。

本日は先生のご経歴のほかに、先生がお考えになる看護の課題や看護師の未来像などについて

お尋ねさせていただきます。

どうぞよろしくお願いいたします。

平田:よろしくお願いします。

高校時代のドイツ留学

中:最初に、先生が医師になろうと思われたのがいつ頃のことかお聞かせください。

平田:子どものころは高層建築に興味を持っていました。

当時、日本初の超高層ビルとして霞が関ビルが完成し、そのドキュメンタリー映画も作られ、

子ども心に建築家に憧れを感じていました。

実家は医師家系でないため発想が縛れることもありませんでしたので。

ところが高校3年の時にドイツへ短期留学しますと、向こうの自由な生活のインパクトが強すぎたのか、

帰国後に軽い神経症のような状態になってしまい、

心配した母親に勧められて精神科を受診するということがありました。

診察の結果、医師に「君のは病気じゃないからしっかり勉強しなさい」と言われただけで

気持ちが軽くなるとともに「人を癒すって素晴らしいことだな」と考え、医師を目指すようになりました。

中:高校時代に留学され、しかもご留学先がドイツというのは珍しいのではないかと思いますが。

平田:中学生の時から獨協の中学に通っていまして、中一からドイツ語を習っていました。

毎年、ドイツ政府による交換留学生が日本で数名試験選抜されるのですが、

中学一年生から勉強していますから当たり前のようパスし、行かせていただきました。

中:ご留学から得るものは大きかったですか。

平田:視野が大きく広がりました。

医師になった後に留学した時にも感じたことですが、本当に世界中から優秀な人が集まって来ていて、

高校留学の時には特に中東諸国からの留学生の優秀さに驚かされました。

中:中学生の頃にドイツ語を習おうとされた動機をお聞かせいただけますか。

平田:それはまただいぶ遡るのですが、小学生のころ横田の米軍基地の隣に住んでいたのです。

住民の半数がアメリカ人で、アメリカ人の子どもと喧嘩することもありました。

日本の子どもの喧嘩は取っ組み合いでしたが、アメリカの子どもは石を投げてくるのですね。

友達が大けがをしたこともありました。

それで頭にきてアメリカが嫌いになり、ドイツ語を教えている獨協に進んだというわけです。

もちろん高校以降はアメリカも大好きになり、

大学ではESS(English Speaking Society)に入っていました。

神経内科を選択

中:医学部に進学され医師になられる過程で、どのようにご専門領域を絞り込んでいかれましたか。

平田:先ほど申しましたような体験から医師を目指しましたので、

当初は精神科医になりたいと考えていました。

しかし徐々に神経生理なども研究できる神経内科に興味が移っていきました。

当時は今のように臨床研修を経て専門科を選択するのではなく、

卒業と同時に医局に所属するストレート研修でしたから、各科を十分には経験できません。

その点、神経内科は今の総合診療科に近い位置付けで、

さまざまな疾患を診ることができるという良さがありました。

チューリッヒ大学留学

中:その後、医師になられてからもご留学されたのでしたね。

平田:大学院を終了するころに、恩師からの

「これからは痴呆症(認知症)の時代だが国内にはそれを学ぶ場所がない。スイスのチューリッヒ大学に優れたドクターがいるからそこに行くと良い」

というアドバイスに従い留学しました。

行ってみますと、そのドクターは実績はもちろん人格的にも優れた方で、

本当に恵まれた環境で研究できました。

世界でMRIが数えるほどしかないという時代に、その大学病院には3台もあり、

世界中から患者さんが来ていました。

中:高校時代のご留学と同じように、各国から優秀な留学生が集まっていたのでしょうか。

平田:東欧やロシアの留学生が多かったですね。

というのも当時はまだベルリンの壁が存在した冷戦時代の最後で、

その中にあって永世中立国のスイスは東側の人たちが訪れやすい国だったからです。

東側の国の人たちは貧しいのですが、非常に旺盛な学習意欲を持っていました。

今の日本に欠けている点ではないかと思います。

中:帰国されてからに就任されるまでのキャリアをお聞かせください。

平田:帰国後は獨協医大神経内科の講師や病棟医長、教授などいろいろ務めました。

『シンカナース』さんに関連することでは、看護学校の校長を5年間務めたことが大きいです。

すごく楽しかったですね。

後編に続く

Interview with Araki & Carlos