今回は名古屋市立大学病院の平岡 翠副病院長にインタビューさせて頂きました。
看護部長として看護部をまとめる、平岡副病院長の手腕に迫ります。
看護師になろうと思ったきっかけを教えて頂けますか。
平岡:私は、最初から「看護師になりたい」という強い気持ちを抱いていたわけではありませんでした。しかし、女性の生き方として“OL”や“主婦”と呼ばれるのには抵抗があって、「職業を持った女性になりたい」という思いがありました。子どもが好きだったため、「教員になりたい」とは思っていましたが、大学受験では思うようにはいかず、進学したのは看護学校でした。入学当初は教員の道をあきらめてなかったのですが、看護の学校で学び始め、病院での実習が始まり、その最初の実習で衝撃を受けました。「看護ってすごいことをしている気がする。でも、看護って何なのだろう」というのが正直な感想でした。看護師は、医師のように病気の診断や治療はできません。でも、患者さんが健康を回復し日常生活に戻っていくためには、患者様自身の病気や治療に対する考え方やお気持ちが大事だと分かり、心身の両面に関わり、療養生活を支援していく看護の存在の重要さに気付かされました。そして、いつの間に、私の学生生活は“看護”の魅力にはまっていきました。
このように看護への思いを膨らませながら、看護学校3年生の時に小児看護の実習がありました。小児病棟にいる子どもたちに出会い、体調が悪い時や、痛みを伴う処置や検査の前は、泣いたりむくれたりと大変です。しかも、実習生を一筋縄では受け入れてくれない子どもたちもいて、大変なことが多く看護学生泣かせの実習でした。しかし、多くの子供達は痛い処置や不安な治療がなくなれば、すぐに自分の世界に戻って遊び始めます、看護学生に「一緒に遊ぼう」と誘ってきます。この変わり身の早さに衝撃を受けました。大人は、目の前のことや先のことが心配になり、不安に駆られ、ふさぎがちになることも多いですが、子どもは違いました。病気があっても、その生きる一瞬一瞬に没頭し、楽しむことができる力を持っている、その強さと輝きに感動しました。
その他の実習でも、大体医会の実習に2名の患者さんを受け持たせていただき、人間の持つ力に感動し、そこを支援する看護の魅力を感じ、迷うことなく看護の道を継続できました。
様々な患者様との触れ合いを学生同士で共有したことはございますか。
平岡:今の小中学生の方が持っている看護職のイメージは、医療ドラマやご自分自身が体調の悪い時にクリニックにかかった時の看護師をみて医師の補助的な仕事かなと思っている方が多いのではと推測しますが、私も自分自身が実習に行くまでは、看護の具体的な仕事は知らなかったです。しかし、私は看護学生の時に初めて看護の場面を見て、感動を受け、感じたことを学生同士でよく話しました。感性が柔軟な時でもありましたので、時間のたつのも忘れて、語り明かすし気付いたら朝になっていたという事もたびたびありました。その中で、学生同士の間でも感じ方は様々で、同じ病気を持って治療されている患者様でも療養過程は1人として同じ事がない事に驚きました。だからこそ、患者さんの大切な1日に寄り添える看護の重要性に気付かされたのでしょう。
看護学校を卒業後の就職先はどのように決められたのでしょうか。
平岡: 卒業するとき、私は患者さんの生活を支え、見守ることのできる地域に根ざした、患者さんに近い病院で働こうと考えていました。しかし、大先輩から、「まずは、様々な病気の方が入院される大学病院で、看護師としての力を磨いてから地域の病院へ行く事の方がいいのではないか」と助言を頂き、看護学校を卒業した後、まずは当院へ就職しました。
そして、前述したように、見かけは小さく弱い存在のように見えるのに、強さを秘めている子どもたちの看護をしたいと、小児病棟を希望しました。運よく小児病棟へ配属していただき、希望を持ち入職しました。
小児病棟での勤務の中で、印象に残るようなエピソードはございますか。
平岡:就職した当時、白血病を治癒するのはまだまだ厳しい時代で、病棟にはいつも数名の小児がんの子どもさんが入院されていました。その一人で小学生の高学年の男子の患者さんのことです。治療を続けていましたがなかなか病状の回復は難しく、長期間に及ぶ入院生活でしたが、とうとう看取りの時期に入り、呼吸状態が厳しく高濃度の酸素を提供できる“酸素テント”という医療機器の中にいました。
私が夜勤のとき、彼の検温へ行きました。すると、ナースコールが鳴って、その音は彼の病室にも聞こえてきました。私は彼の病状が心配で、ナースコールの対応に躊躇していました。すると、会話もままならないはずの彼に「看護婦さん、ナースコールが鳴っているよ、早く行ってあげて」と言われ、「はっ」と我に帰り、ナースコールに対応するため彼の部屋を出て急いで駆けつけました。
ナースコールの対応を終え再び彼の部屋に戻ると、「誰だった?」と聞き「○○ちゃんだったよ」と答えると、また安心して眠りについたのです。
その日私の担当する患者さんの中で一番重症であった彼が、友達のことを心配している、人として当たり前のことかも知れませんが、その当たり前の行為がどんなに自分が苦しくとも出来る事に胸を打たれました。私は今でもあの光景を思い出すたびに涙があふれます。子どもは何が大事なことなのかを知っている、純粋なだけに大人以上の強さを持ち合わせているのだと心からこどもたちを尊敬できました。
当時の医療では、回復が望めない状況の子どもたちにしてあげられる事がなかなかなくていつも思いあぐねていたような気がします。そんな中で、看護師の自分にできることを探し、子どもたちや親御さんの味方でいられるよう、周りの先輩や医師達に相談し、毎日必死に看護を探していた気がします。
あの時の経験から、いまだに看護とは何かを追い、「看護師としてできる事があるのではないか」と今も探し続けている気がします。
日々接する中で患者様から気付かされることがたくさんあるのですね。
平岡:子ども達や親御さんとのお話から、気付かされることばかりでした。があるのではないか
その気づきから、看護を提供できる楽しさを知ることができ、少しずつ成長もできたのではないかと思います。
入院していた子どもが亡くなる場面に立ち会うことが幾度かありました。お別れのときに親御さんとこれまでの道のりを振り返らせていただき、お話を聞かせて頂いているうちに思わず涙があふれてきてしまのです、本当に泣き虫でしたね。このような経験から患者さんやご家族から看護師に向けて大事なメッセージを頂いていたと思います。
小児病棟には何年くらいいらっしゃったのでしょうか。
平岡:小児病棟には8年ほど勤務していたと思います。
その後、妊娠・出産を経て復帰しましたが、復帰後2年ほど外来で勤務しました。外来では、病棟とは違い、毎日沢山の患者さんが来院され、診察時までに、受診に必要な検査結果を準備し、順番通りに患者さんを呼びだすという仕事がメインでした。じっくり患者さんと関ることが難しく、「ここでの仕事に看護はあるのだろうか」という疑問が私の頭の中に渦巻き、病棟勤務への異動を願い出て、半年後くらいに未熟児病棟に配属となりました。
正直に言うと、原点である小児病棟へ戻れたらなあという思いもありましたが、同じ小児の領域でしたので、新しい部署での再スタートにわくわくしました。未熟児病棟では、重症な新生児や低出生体重児の子ども達と不安を沢山かかえたご家族と出会い、家族の始まりを支えるという新たな看護の役割をみつけ新たな経験を積みました。そして、数年して看護師長の昇任試験(係長試験)を受け合格し、1年間成人病棟へ異動しましたが、再び未熟児病棟に戻り、看護師長になりました。その後、看護師長として成人病棟を4年間経験し、小児病棟へ戻りました。
また、小児看護に携われる、自分の原点に戻れると高なる気持ちで病棟の扉を開けた事を思い出します。小児病棟はその当時、最も時間外の多い多忙を極める病棟でした。しかし、スタッフたちは明るく元気で、入院している子どもたちに真摯に向き合っている事が伝わってきました。超多忙でしたが、皆、声を掛け合って協力して仕事をしていました。ただ、忙しさゆえ業務整理がされていなかったので、改善すべき事は多かったです。「病気があっても、入院している子どもたちが輝ける時間を作ろう」を合言葉に、子どもとその家族に全力でぶつかっていた気がします。スタッフ達のその気持ちを支えるため、私も全力でスタッフに向き合い、とても充実した時間をすごしていました。当時のスタッフとは現在も毎年、忘年会などで集まり当時を振り返っては「とにかく毎日忙しかったのに、皆笑っていたし、楽しかった。」と口ぐちに言います。
看護師長として小児科病棟へ戻られてからは、見え方など何か違いを感じられましたか。
平岡:看護師長になると、時にスタッフと一緒にケアに入ることはありましたが、私が直接患者様にケアする事は極めて少なく、病棟のマネジメントに費やすことがほとんどでした。そのため看護師長になった当時は、看護師としての充実感を感じることが難しく自分自身のモチベーションを保つことが難しいと感じることが多かったです。
看護師長は、直接ケアをほとんどできない寂しさがありますが、スタッフを通して、スタッフとともに、自分がめざす看護を目の前にいる患者さんやご家族に提供ができると気付きました。
そのため、スタッフとはいつも「今、この患者さんにどんな看護が必要なのだろうか?」「この患者さんにどう向き合っていく?」など、いつでもどこでも、スタッフと患者さんとその看護について語り、私自身の描く看護をスタッフたちの考えと重ねていました。
しかし、患者さんご家族も様々な不安や課題をかかえられ、容易に解決することは少なく、患者さんご家族の思いを受け止めながら、「今、私達にできる精一杯のことをやろう」といつも新しい事にもチャレンジしていました。それでも、実現不可能なこともあり、そのような状況が重なると、何のために“看護”をしているのだろうと先が見えなくなることもありました。しかし看護師だけで解決しようとせず、家族はもちろん、医師や薬剤師、栄養士、PT等多職種と協働することで道が開ける事も数多く経験しました。今ではチーム医療は当たり前ですが、その当時としてはまだまだ手探りで、患者さんの課題を解決するには当然の結果だったとも思います。
このような体験は、スタッフ達に行き詰ってもいつか道は開けると、前向きに捉える変化が出始め、患者様にも良い結果が起る事もありました。忙しかったけれども、看護師として充実した心から楽しいと思える時間を過ごすことができました。
スタッフの方々が漠然と抱えている問題にどのように向き合っているのでしょうか。
平岡:やはり、スタッフ達は目の前にある仕事をやらなくてはいけない状況ですから、私は問題を整理することが必要だと思っていました。私だけで問題解決するわけではありませんので、スタッフ達から状況を良く聞き取り、業務整理、環境調整しながらマネジメントしていく事で、看護に向き合う時間を見いだせるようになると、スタッフ達はいきいきしていきます。
スタッフの患者さんへの看護への思いを表現させる支援に時間をかける事は大事で、スタッフが語ってくれた事を大事にしていくとスタッフ達自身から、とても良い提案がでてくるようになり、自分達が提案した事がうまくいけば、それはしめたものです。こうやって個々の意見から実践へ、そして病棟全体の実践に変えていく事が、病棟としての一体感に繋がっていくのだと思いました。
看護の仕事は多岐に渡って、あれもこれも行うことが要求されてしまいます。
そのすべてをやらなければいけないと受け止めてしまうと、看護師自身がすり減ってしまい、疲れてしまいます。だからこそ、看護職として今注ぐべき事を焦点化し、患者様に届けられるものを明確にしていけば看護の仕事は随分楽になると思います。
師長として、どのようにスタッフとの看護を形にしていかれたのでしょうか。
平岡:師長として何年か経過し、スタッフ達のケアを見ていると、提供するケアにエビデンスはあるのか、適切なケアと言えるのかと疑問を抱く事もあります。どうしても、一旦ルーチンになってしまうと継続はしていくけど、そこに疑問を抱く事が少なくなっていくなと感じていました。
スキンケア一つとっても患者様の状態、年齢など向き合う状況は異なるため、常にエビデンスを意識した根拠あるケアを判断していく事が必要になります。その重要性をスタッフに伝え、どうしたらエビデンスのあるケアを提供できるのかだろうかと、機会あればケアへの疑問を投げかけ、今行っているケアが全てではないのではないかと指摘しました。
そうすることで、スタッフ達自身が文献を集め、ケアを組み立て、根拠あるケアなのか研究に取り組んでいくスタッフも出てきました。その結果、患者様の状態が改善したという変化が起こり、それは看護者としての大きな自信に繋がっていったと思います。私は、研究に取り組むことは、看護職者としての自信を作ると思っています。行き詰ると自分たちでケアの限界を感じてしまうことが多いと思いますが、そうならないよう視点を変え取り組んでいくきっかけやヒントを示すように努めていました。視点を変えるには、自分の施設にとどまらず、他の職種や施設での取り組みを聞く等情報収集し、視点を広げることが重要だと思います。そして、学んだことを、実際に患者様に還元していくこと、情報収集を通して他の施設のスタッフとネットワークを作る事も大事だと思っていました。
小児科病棟からNICU病棟へ異動されたのでしょうか。
平岡:そうですね、大変やりがいを感じてとりくんでいましたが、人事異動が発令され、NICUと兼務という発令で、異例でしたが小児病棟とNICUの2病棟を任されました。2病棟をマネジメントする事はやはり大変でしたが、丁度その当時、病院の新病棟建設の時期で、新たな小児のフロア(小児内科・小児外科・NICU)を計画するプロジェクトが発足し、2病棟の師長だったからこそ、その事業に携わる事ができたとも思っています。“9階のエレベーターを降りたら別世界”が今プロジェクトの合言葉で、医師・看護師はもちろん病棟壁面等斬新なアイディアを出して頂いた当大学芸術工学部の学生の皆さん、建築現場の職人さん、そして事務職など多くの方々と2年間に及ぶディスカッションの末、現在の9階フロアの形になりました。多くの職種で携わった方々の知恵と愛が詰まった、自慢できるフロアだと自負しています。
それから、平成17年に名古屋で開催する日本新生児看護学会学術集会における大会長のお話を頂きました。
その頃は、2病棟のマネジメントからNICU単独の看護師長を行っていました。しかし、通常の業務を行いながら、生まれて初めて学術集会を企画・運営をするという未知の世界に挑戦するという貴重な経験をさせていただきました。これも手探りで、多くの方の力を借りて、協働する難しさ、楽しさを経験しました。結果的に、新生児看護に携わっている現在に繋がるものとなっています。
人との繋がりが広がっていくことで、また良い看護へと繋がっていかれたのですね。
平岡:そうです、当然のことながら私どもの施設だけでは学会の準備はできませんので、近隣のNICUのある施設に協力を呼び掛け、学術集会の開催に辿りつく事が出来ました。学会終了後、せっかく学会成功のために結集した力をそのまま解散するのはもったいないと思いまして、学会終了後に、一緒に学会を運営してくれた看護師長達と、愛知県を中心とする“新生児看護学セミナー”を立ち上げました。この時からこの会の代表を務めさせて頂いていますが、今年で13年目を迎えます。昨年より日本新生児看護学会中部地方会として認めて頂き、大きな第1歩を踏みだしています。今年3月その記念すべき第1回を開催しました。
このように、たくさんの方々の協力を頂く事で、自分だけではとうていでき得ないことを可能にするという、一人一人の力を繋いでいくことで大きな事も成し遂げることができる事を痛感しました。この経験は何事にも代え難く、いつも繋がっていく事の大事さをスタッフ達に伝えています。
看護部長として、悩まれることもございますか。
平岡:悩む事がないとは言いませんが、私はほとんど悩みません。
もちろん困ることや、難しいと感じることは多々あります。たとえ、解決できないとしても、悩んでいるだけでは前に進みません。何か問題が生じたとしても、その状況もどんどん変わっていきますので、その都度、集中して考え抜く事につとめています。そして答えを導いて行動していくことで、周囲も変わっていきます。
その段階でまた考え、出た応えを実践することで、「できることはやった」と気持ちを切り替えることができます。
またやるべき事をやらなかったときは、失敗として結果が返ってくる事が多いです、その時は反省し、自分に不足していた点や改善すべき点を振り返ります。
人生は一度しかない、その中で降りかかる問題には、何らかの意味があると思っています。問題を解決に導き、問題の意味を見い出せたときは達成感や充実感があります。いつも私に降りかかってくる問題のその意味を問い、受け止めることから、出発するようにしています。
後編へ続く
シンカナース株式会社 代表取締役社長
看護師として勤務していた病院において、人材不足から十分な医療が提供出来なかった原体験を踏まえ「医療の人材不足を解決する」をミッションに、2006年に起業。 現在、病院に対しコンサルティングおよび教育を通じた外国人看護助手派遣事業を展開。25カ国以上の外国人看護助手を育成し、病院へ派遣することで、ミッションを遂行している。 東京都立公衆衛生看護専門学校 看護師 東洋大学 文学部 国文学科 学士 明治大学大学院 グローバルビジネス研究科 経営管理修士(MBA) 日本大学大学院 総合社会情報研究科 総合社会文化博士(Ph.D.) ニュージーランド留学 帝京大学医学部附属病院 東十条病院 三井住友銀行 元東京医科歯科大学非常勤講師 元同志社大学嘱託講師 元日本看護連盟幹事 元東京都看護連盟幹事 日本看護連盟政治アカデミー1期生 シンカナース株式会社/代表取締役社長 著書 『わたしの仕事シリーズ2 看護師』新水社 『医師の労働時間は 看護業務の「分業化」で削減する』幻冬舎 『外国人看護助手テキストブック』幻冬舎