No.115 小田 明美様(汐田総合病院)前編:現場に来て、ちゃんと患者さんの支援ができるか

インタビュー

今回は汐田総合病院の副院長、認定看護管理者でもいらっしゃる小田明美様にインタビューをさせて頂きました。

統括看護部長を兼任されている小田副院長の手腕と魅力に迫ります。

朝から晩まで時間が濃密に過ぎていく

看護師を目指されたきっかけを伺ってもよろしいでしょうか。

小田:今ロケットで有名になっている鹿児島県種子島出身なのですが、高校3年生の秋に祖父が亡くなって、身近な人の死を初めて経験しました。

鹿児島というのは男性が強いイメージがあると思いますが、私の父も頑固で、その父が悔し涙を流しているのを初めて見た時に、「これは何なのだろう」「離島の医療ももう少しどうにかなるといいのかな」と思ったのがきっかけです。

たぶん医師は「もう救えない」ということがわかっていたのだと思いますが、私自身の感情の中に、モヤモヤしたものが残っていました。もともと学校の先生になる予定で大学も決定していたのですが、切り替えて鹿児島の看護学校を受験しました。

学生時代の思い出をお聞かせいただけますか。

小田:私が学生の頃は夜勤の実習もあって、看護師と一緒に一晩、真夜中のお仕事を明け方まで経験しました。

看護学校は全寮制で、寄宿舎から学校まで、畑の中を懐中電灯で照らして、その日の深夜勤の4〜5人が連れ立って学校に行きました。

明け方になると、栄養士や調理師が食事を運んできて、看護師が盛り付けて患者さんに配るので、それを手伝ったりしました。

夜勤明けには、患者さんの点滴も学生がするので、学生同士で採血の練習を積んで臨みました。

実習時間はおそらく今の2倍近くあったと思います。

医学生と一緒に解剖実習に行って、見学させてもらったこともあります。

辛かった思い出はありませんか。

小田:辛いということはあまりなくて、本当に朝から晩まで、お休みでもよく勉強したなということと、サークル活動もしていました。

夏休みに、自分たちで選んで保育園の実習に行こうとか、あの頃は水俣病が流行っていたので自分たちで学習に行こうと言って、水俣診療をしているところに行き患者さんのお家にも同行させていただくなど、3年間一生懸命勉強しました。

学生の時に看護の魅力をみつけられたのでしょうか。

小田:看護師は、やはりとても貴重なお仕事というか、朝から晩まで時間が濃密に過ぎていくのだということは感じました。

体で覚えこんでいくという感じ

そちらを卒業された後、東京にいらっしゃったのですか。

小田:はい。

最初の病院ではどちらの病棟に配属されたのですか。

小田:消化器病棟で、外科も内科もあり、ドックが一緒になっていました。

著名な方が来院されるなど華やかな面もありましたが、仕事を始めて2か月で新卒同士での夜勤をし、一晩で3名のお看取りをしたり、新卒1年目の除夜の鐘はトイレで尿測をしながら迎えたり、

夜勤後の日勤者へ申し送りでも、決められた時間を守れなくて、患者さん全員分を送ることができず困ったこともあります。

先輩に「きちんと記録していればちゃんと読むから、記録を先に書くように」と言われて、そういうことも体で覚えこんでいくという感じでした。

都会では想像できないようなこと

看護師を目指されたきっかけが、離島で種子島にお住まいだったことと伺いましたが。

小田:出向支援という形で、奄美大島に半年くらい行って、あとは自分の生まれた島で町立の病院を作る立ち上げに1年間関わることができました。

看護師になって5〜6年の頃、主任という立場で19床の診療所へ行きました。

島唯一の入院施設でした。

手術もするので、医師は所長の外科医しかおらず、医師が麻酔をかけて手術している間は、私が医師の指示通りに麻酔の機械を操作し、出血多量で輸血が間に合わないときは手術室横で、採血をして人海戦術で大量輸血の対応をしました。

所長と一緒に往診もしましたし、漁船に乗って小さな島を健診して歩きました。

離島の医療は本当に大変で「マムシに噛まれた」とか、農作業の草払い機で誤って耳や指を切り落としてしまった怪我の対応など、都市部では全然想像ができないようなことがたくさんありました。

結婚してからこちらに引っ越してきて当院に勤め始め、2年ぐらいパートで働いて、その後子どもが生まれて、入職して3年目ぐらいで正職員になりました。

正職員と同時に主任を拝命し、1年経たずに病棟師長・教育師長、また1年経たないうちに副看護部長という形で進んだので、現場にいた期間は短いのが弱みかもしれません。

今、部長さんになられてどのくらいでしょうか。

小田:15年ぐらいです。

その前に副部長を13〜14年勤めました。

もともと看護学校の先生になりたいという思いもあり、現在看護学校に非常勤講師として行っています。

変えていく楽しさ

教えられる体験というのはいかがでしょうか。

小田:やっぱり現場の方が、より変えていく楽しさがありますかね。

学生には基礎をしっかり勉強してほしいけれども、現場に来て、ちゃんと患者さんの支援ができるかというのが看護師の一番の貢献責任なので、それが肌に見えるのはやっぱり現場だと思います。

看護学校というより、今の「管理の仕事をしている方が合っているのかな」と最近は思うようになりました。

暮らしの中で健康を維持する

こちらの病院の理念は部長が決められたのですか。

小田:そうです。案を創り、師長たちと確認しました。

日本医療機能評価機構受審前にいろいろと決めていく段階で、みんなで話し合ったところで「私たちは生命(いのち)を大切にし、常に患者様から学び、専門性を高め、継続性のある看護を目指します」としました。

もともと看護師の仕事として、病院に入院している時だけではなく、その前の予防段階から、きちんと自分たちの暮らしの中で、健康維持することに看護師もかかわっていかなければいけないという思いがあったので、本質的な賢さ、豊富な知識とあふれる好奇心、優れた判断力を備えることを目指してこのようにしました。

楽しみながら、きちんと食事が摂れるように

何か心がけてらっしゃることはありますか?

小田:この施設を作る時にも設計技師とよく話をして、「太陽の光が患者さんの足元まで届くように」というコンセプトで、窓を大きく造っています。

それから「口から食事を摂って、栄養管理をしっかりする」ということが健康を取り戻すために最も大事なことなのだと、ナイチンゲールの看護論から習ったので、それを施設づくりや理念に入れ込んで、食べることをきちんと考えるようにしています。

お部屋の入口に洗面所を設け、患者さんには朝・昼・晩デイルームでみんな一緒に楽しみながら、一口でも二口でも食事がきちんと摂れるようにしています。

健康な人でも、家で一人食べていると味気なくてなかなか食べられないのに、入院してきて苦しかったり痛かったりすると、一人で黙々と食事に向かっていくのは大変なエネルギーが必要になります

入院している患者さんもお互いに支え合って、どれだけ頑張って口から食べられるかということは、とても大切なことなので、そのことを一番こだわってスタッフにも話しています。

医師にどれだけ手術の腕があったとしても、看護師がきちんと口から食事を食べることができないと元気にならない、健康を取り戻せないので、それが一番こだわっていることです。

入院された方は、みなさんデイルームでお食事されるのですね。

小田:はい。

病棟でインフルエンザが流行ったりすると、なかなかそういうことはできませんが、朝昼晩、必ずご飯が出て、座れる人はデイルームにお連れして、みんなでワイワイ言いながら食べるという、昔の日本の団らんの席というのが一番良いのではないかと考えてやっています。(もちろん患者さんが、拒否したら別です。)

大変ですが、けっこうこだわって毎食実施しています。

自分たちのケアが続いていくということが必要

今日こちらに上がってくるまでエレベーターを使わせていただいて、患者さんがけっこう出ていらっしゃるのがわかりました。

小田:食事の時間はそうですね。

食事の前だいたい1時間前から来て食べる準備に入っていくので、リハビリがある方、嚥下訓練をしてからお食事を召し上がる方もいらっしゃいます。

自分たちのケアが続いていくということが必要なので、入退院を繰り返す人など、「何故なのだろう」と気になると、「その患者さんのお宅に行こう」と、病棟や外来の看護師・医師・事務・薬剤師などが患者さんのお宅に伺って、状況を確認しながら、自分たちのケアの結果が続いているか評価しています。

訪問看護師だけが行くということではなく、自分たちが働きかけた結果がどうなのかということの確認することが大切だと思います。

後編へ続く