No.113 細谷 美穂様(入間川病院)前編:母の病室で看護学生として寄り添った日々

No.113 細谷 美穂様(入間川病院)前編:母の病室で看護学生として寄り添った日々

  • 2018年4月16日
  • インタビュー
No.113 細谷 美穂様(入間川病院)前編:母の病室で看護学生として寄り添った日々
No.113 細谷 美穂様(入間川病院)前編:母の病室で看護学生として寄り添った日々

今回は入間川病院の看護部長、認定看護管理者でもいらっしゃる細谷美穂様にインタビューをさせて頂きました。

細谷看護部長の手腕と魅力に迫ります。

 

看護師をめざした原点

看護師をめざしたきっかけを教えていただけますか。

 

細谷:子どもの頃から看護師という職業には憧れていましたが、はっきりと進路を決めたのは高校生の時です。

一生働ける職業をまず考えて、その中で自分がやりたい仕事は何だろうと思った時に、看護師だと思い、看護専門学校に行くことを決めました。

私は4人姉妹の3番目で、姉たちから細やかな世話をされることが多かったのですが、私自身も人のお世話をするのが好きでしたし、小さい頃通院していたクリニックの看護師さんたちの働く姿が強く印象に残っていて、その影響もあります。

注射が怖いのか、小さい子が暴れていたりすると、その子をグッと抱きかかえて、「ほらお母さん、こうするのですよ」と言っている姿は、実に頼りになる力強い看護師さんたちでした。

看護師は子ども(=患者)だけではなくて、困っているお母さん(=患者家族)も助けることができる職業なのだと子ども心に思いました。

「病院連携」「病診連携」と今では言いますが、うちの母とそのクリニックの看護師さんたちのやり取りをみていると、双方の連携が成り立っていて、病院と自宅をよく繋いでくれるのは看護師さんという感じがしました。

 

看護専門学校には、ご自宅から通われたのですか。

 

細谷:3年間、自宅から通いました。

 

学校生活で印象に残っていることはなんですか。

 

細谷:准看護師の免許で働きながら看護師の資格をとったのですが、私が准看1年生の時に、母が急性骨髄性白血病になったのです。

母の枕もとで試験勉強をしたりしていたのですが、あっという間に母は重篤になり、次々に検査が行われ、19歳の准看護学生にとっては医師から説明を受けても理解ができず、何を言われたのか何の検査か、全く理解出来ず不安でした。

もしかするとこのまま母が亡くなってしまうかもという事も実はよくわからなかったです。

だから家族は、基本的に状況を理解できていないということもあると、私は思います。

あの頃、急性骨髄性白血病について調べたくて、母の傍で教科書を開いていると、看護師からアドバイスを受けまた「働きながら大変だけど、今はお母さんのそばにいなさいね」と労ってもらいました。栄養士からも「お母さんが食べることができなかったら、家族の皆さんが戴いてかまわないのですよ」「梅干を1個付けておくので明日の朝にでも、召し上ってくださいね。」と声をかけてもらいました。

私は家族として、また学生として、ここで多くのことを学びました。

それは、病院には看護師だけではなく色々な職種の人がいるということです。

そして、看護師や栄養士など、医療者たちの何気ない一言が、どんなに家族の不安を和らげるか、身をもって知ることができました。凄い仕事だなと思いました。

 

大変なご経験をなされたのですね。

専門学校卒業後は、附属の病院にお勤めをなさったのですか。

 

細谷:いえ、医師会系列のクリニックで5年間働き、それから県立病院に就職しました。

 

クリニックと病院では、大きなギャップはありませんでしたか。

 

細谷:ええ、戸惑いました。

今まで外来患者との関わりだけでしたが、がんを患っているような重篤な患者やそのご家族に接することになりましたので。

実は母が入院していた病院に就職しました。当時の看護師がまだ在籍されていて、「一緒に頑張りましょう」と温かく迎え入れてくれました。

 

大きな病院に移るときはどなたかからお声がかかったのですか。

 

細谷:いえ、自分の選択です。

看護学校3年生になると誰でも進路に悩みますが、小規模病院やクリニックよりも多くの症例を持っている大病院で自らを鍛えたい、そのほうが幅広い知識が身につくと思いました。

私は一人前の看護師になるためには何が必要かを考えていたのです。

 

患者にとっての看護者の在り方

その頃から看護師として働き続けたいと思っていらしたのですね。

ところで、看護師としては今、何年目でいらっしゃいますか。

 

細谷:23歳から働いて、今年51歳になりますので28年目です。

勤務先は母の病状に合わせていくつか変わりましたが、仕事はブランクなく続けております。

県立病院で勤務している時、母は一命を取り留め自宅療養していましたが、その頃の母は病状が安定せず介護が必要でしたので、3交代勤務は介護しながらでは自身の体力と家族への影響も大きかったため、民間病院に転職しました。この頃は徐々に母の病状も安定してきましたが、親の命の限界があると思いながらの時間は、辛い気持ちの連続でしたが仕事がその気持ちを楽にしてくれました。もう少し母の傍にいながら仕事も前向きにと考えられるようになりました。

 

なるほど。そういうご経験があると、いろんな立場の看護師たちの気持ちを理解できて、サポートしやすいものでしょうか。

 

細谷:そうですね、でも結局は「本人のやる気」です。自分は一人前の看護師になるという、強い信念が大事だと思いますよ。

親の介護、出産、子育てと、家庭の事情で看護現場から一旦離脱せざるを得ない人、逆に40歳代で看護師免許を取りたい方、いろんな方がいますが、そういう方々はよほど気もちを強くもって看護師の世界に飛び込んでこないと、何も問題を抱え込んでいない看護師さんよりは負担が大きいのは事実ですので、看護師として大成しないと思うのです。

でもその負担がすべてその人の肥やしになって、看護師を続けることができるのであれば大丈夫と思います。

看護師を目指すひとは皆、どんな状況においても看護師として生きていくという強い心をもっていただきたい。

そして、辞めずに看護師の仕事を続けていただきたいと思います。

個々抱えている事情はさまざまですが、患者にとって看護師の抱えている事情・背景は関係ありません。

新人であるか、ベテランであるかも関係ないのです。

明日をもしれない命の患者さんを前にして、何を提供して差し上げれば、その方の人生の集大成に自分が役に立つことができるか、慮ることのできる看護師さんになってほしいと思います。

ただ、介護や育児等を抱える看護師さんの負担が大きいことは確かですので、そうした看護師が長く勤めることができるように周りがサポートすることは大事だと思います。

 

そうですね。ところで看護部長になられたのは何歳の時ですか。

 

細谷:入間川病院にくる前の病院で、42歳の時です。

そこで4年間、看護部長職を務めたのですが、急性期の病院に身を置いてチャレンジしたくなり、この病院に部長職として参りました。

後編へ続く

白岩 憲子
A-LINE株式会社 シンカナース副編集長
聖路加国際大学卒業 看護師 保健師 東京武蔵野病院