No.89 佐藤 美子様(川崎市立多摩病院)前編:看護管理のスペシャリストとして

インタビュー

今回は川崎市立多摩病院の佐藤 美子副院長にインタビューさせて頂きました。

看護部長、副院長としてだけでなく、認定看護管理者会の会長としてもご活躍中の佐藤様の手腕に迫ります。

人の役に立つ仕事がしたくて東京へ

看護師になろうと思われたきっかけを教えてください。

佐藤:もともと看護職を目指していたというわけではなく、幼いころから何か人の役に立つ仕事に就きたいと思っていました。

高校の卒業のとき、婦人警官になろうと思い警視庁の試験を受けましたが、当時はまだ婦人警官そのものが少ない時代で、2~3年に1度の採用試験で、倍率が約70倍と非常に高く、結局2次試験で落ちてしまいました。

それで、もう一度「人の役に立てる仕事」について考えたとき、看護師という職業が思い浮かびまして、東京の看護学校を何校か受験して合格しました。

なぜ東京の看護学校に進学しようと思われたのですか。

佐藤:当時、伊豆の辺りに住んでいましたが、「家を離れてみたい」とか「東京に出てみたい」という思いがありまして、進学を機に東京に出ることにしました。

看護学校での3年間は4~5人1部屋の寮生活で、24時間どういう生活をしているのかが全部筒抜けで、門限もありましたので、大変な面もありました。

教員から「あなたは向いてないから、早めに決めたほうがいいわよ」といった面接をされる人もあり、もともと20人の枠でしたが、卒業時には11人になっていました。

でも、今思うと面白かったと言いますか、楽しかったです。

看護学校での授業や実習で、特に記憶に残っていることはありますか。

佐藤:私は社会系の心理学や人間関係論など教養的なものを学ぶ授業が好きでしたが、正直なところ実習はすごく大変だった記憶があります。

当時は在院日数が長く、がんのターミナルの患者さんでも、痛み止めを使いながらまだまだ自分で身の回りのことができる患者さんが多く入院していらっしゃいまして、「将来、いい看護師になってほしい」というお気持ちから学生の私に快く協力してくださいました。

担当させていただいた患者さんは、自分の親や祖父母のような年齢の人生の先輩方ばかりで、おかげさまで病気のことだけでなく人生についても、たくさん教わりました。

中堅看護師として自分の看護の役割を考える

看護学校を卒業してからは、どちらの病院に入られたのですか。

佐藤:私は学生時代、看護学校附属の病院から奨学金を受けていましたので、当時はいわゆる「御礼奉公」として、卒業後1年間は看護学校附属の病院で勤務しました。

その後、実家のある伊豆のほうに戻り地元の病院で2年働きましたが、3人いる私のメンターのうちの一人の先輩が誘ってくださったこともあり、大学病院に移り5年間勤務しました。

大学病院と一般の病院とでは、どの様な違いがありましたか。

佐藤:そうですね、大学病院には、勉強のために若い看護師が毎年入って来て、ある期間経つとみんな地元に戻るので、常に新人の育成を行っていくのが大変だったように思います。

大学病院は最新の治療を受けられるところですが、治療が終わるとそれぞれ地域の病院に戻っていかれる患者さんが多いので、患者さんがどういう思いで最後まで過ごされたのかが分かりにくい、という点も感じました。

特に、中堅看護師として働くようになってからは、「自分の看護の役割は何だろう」ということを考えるようになりました。

中堅看護師としての役割、ですか。

佐藤:そうです。若い時はナースコールが鳴ればすぐ駆けつけて、痛み止めやトイレ介助など身体的ケアを求められていました。それが27~28歳になり中堅看護師として見られるようになった頃を境に、患者さんからいろいろな相談を受けることが多くなりました。

例えば、「これから自分は仕事を続けていけるだろうか」とか「実は妻には言っていないけど、心配なことがあって…」とか「何歳になる子供がね…」など精神的、社会的なことです。

それで、患者さんを援助するには、身体的なケアだけでなく、精神的、社会的なケアに取り組むこと、また看護職がチームとして関わっていくことが必要であると感じまして、看護のマネジメントを勉強したいと思うようになりました。

看護管理を学ぶ楽しさ

看護のマネジメントは、どのように勉強されたのでしょうか。

佐藤:当時の看護基礎教育の中には看護のマネジメントについて学ぶ現在の「統合分野」にあたるカリキュラムがありませんでしたので、看護協会で主催する研修学校の「管理コース」に入りました。

当時の研修学校の校長先生が、以前大学病院の看護部長をされていた私の大好きな方だったという事もあり、お金を貯め試験対策もきちんとして入校しまして、夢のような1年間を過ごしました。

「夢のような1年間」を過ごされたというのは、すごく楽しかったということでしょうか。

佐藤:そうです、全部で47~48人ぐらいのクラスでしたが、平均年齢が29歳で、5年経験で来ている25~26歳の人が一番若くて、上は10歳以上年上の方がいらっしゃいました。

年齢も立場も違う人たちが集まり、上下関係なく同じ目線で「看護とは何か」について話し、授業で学んだ理論に即して自由に意見を言い合えたのは、とてもいい体験だったと思います。

平成元年にその研修学校を卒業し、今年で29年目ですが、3年に1度今でも当時の仲間で同窓会を全国で開いています。

管理職として経験を重ねる

管理コースを終えられてから、現在の立場に就かれるまでの経緯を教えていただけますか。

佐藤:管理コースを終えてからは、副師長として約200床の看護部150人ぐらいのスタッフのいる市中の病院、中規模病院で勤務しました。

役職は副師長でしたが、業務的には看護単位の全てのマネジメントをさせていただきました。200床ぐらいですと、スタッフの名前も顔も性格も全部分かり、大学病院のような大きな組織よりも管理がしやすいという利点があります。

市中の病院には長く勤められたのでしょうか。

佐藤:はい、市中の病院で23年間勤務しました。

その中で、医療安全や感染、個人情報の管理、電子カルテの立ち上げなどマネジメントをするうえで大切なことに関わらせていただきましたし、大学や大学院にも行き、40歳代の頃から5年間看護部長もやりました。

当時、7:1の人員配置が開始となり、大病院が訪問看護や介護老人保健施設などから看護師を全部持って行ってしまうことが多くありました。ですから中規模病院は医師不足の上に看護師不足を招くことになり、経営的にも大変でした。その様な中で看護部長として専門性を育てるために認定看護師や専門看護師を育成するという目標を立てて頑張りました。

結果的に認定看護師がゼロから6~7人と増え、チーム医療の取り組みで薬剤師の方に病棟に出てもらったり、チームワークを良くするための看護の大会を開いたりすることもできました。

看護管理学を教える立場に

市中の病院を退職された後は、何をされたのでしょうか。

佐藤:5年間看護部長をして、「もう次に譲ってもいいかな」という思いになった頃、大学で看護管理学を教える機会をいただきました。

ちょうど看護基礎教育のカリキュラムが変わり、看護管理についてぜひ教えたいと思っていた時に、タイミングが良くお話を頂いたのです。

看護学生の多くは、1対1の看護しか教わってきません。

それでも卒業して就職すると、例えば1日5人~10人看護に当たらなくてはならなくなります。それをするためにはどうしたらいいか、つまり統合分野を学んで、病棟をマネジメントすることを学生の頃から意識することが、将来につながるのです。

どちらの大学で教えていらっしゃったのでしょうか。

佐藤:福島にある医科大学の看護学部で、2011年の4月から4年間教えました。

ちょうど2011年3月の東日本大震災の直後からの赴任でしたので、福島医大から何度も電話がかかってきて「本当に来てくれますか」と聞かれましたが、私は「もちろん行きます」と返していました。

学生たちもまじめで、全員が来ていました。

学生達に教えながら色々なことができて面白かったので、大学の教師として骨をうずめようかとも思いましたが、自分の教えた学生が管理者となって結果が出るまでには、約10~20年かかりますし、その頃私が生きているかどうかも分かりません。

現場に戻りたいと思われたのでしょうか。

佐藤:そうです、看護部長をしていたときは診療報酬の改定のたびにスタッフの研修や認定看護師など専門性についてあれこれ考えていましたが、現場から離れると色々なことがだんだん思い浮かばなくなってしまいます。

今戻らなかったら絶対現場で管理はできないかもしれないと思ったところに、ちょうど当院で看護部長になるお話をいただきお受けしました。

看護のために法律を学ぶ

ところで、お話の中で大学や大学院に行かれたとありましたが、仕事をしながら通学されたということでしょうか。

佐藤:そうです、夜勤の師長をしながら、昼間の4年制の大学の法学部に通いました。

朝から午後までしっかり授業を受けてから15時ぐらいに家に戻り、準夜帯の16時から深夜0時まで病院で仕事をするというパターンでした。

でも大学は、2~3カ月ちょっとやるとすぐに夏休みや冬休みになりますし、1、2年生のときに80単位ぐらい取れば、後の2年はそれほどハードではないのです。

医療に関する学部ではなく、法学部に行かれた理由は何ですか。

佐藤:大学に行こうと思ったのが、ちょうど臓器移植法案が可決された頃でして、身分法として保助看法で看護師をしている立場として臓器移植法という法律をどう捉えたらいいのか、と考えたのもきっかけの一つかもしれません。

つまり、看護のために法律を学びたかったと言いますか、何か考えたりしようと思ったときには、ルールを理解しておくことが必要だと思ったのです。

大学を卒業して1年間ぐらい経ってから、やはり看護の専門性も深めたいと思い、大学院に進み看護管理学を学びました。

後編に続く

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