No. 79 岡田 綾様 (順天堂大学医学部附属練馬病院) 前編:「仁のこころ」で歩んだ30年

インタビュー

今回は順天堂大学医学部附属練馬病院の岡田 綾看護部長にインタビューさせて頂きました。

部長として大きな組織をまとめる岡田看護部長の手腕に迫ります。

助け合って乗り越えた看護学生時代

看護師になろうと思われた理由をぜひ教えてください。

岡田:実は、それほど高い志で看護師になったわけではありません。

当時はそんなに職種がない時代でしたので、「女性が自立の出来る職業」ということで考えた時、最初に思い浮かんだのが看護師でした。

看護学生時代は、どのように過ごされたのでしょうか。

岡田:看護学校は、自分が思っていたよりもすごく大変でした。

授業は朝から晩まで休みなくありました。

順天堂医院での実習では、先生方が厳しくも熱心に教育してくださり緊張の連続でした。

看護実習で何か心に残る出来事はありますか。

岡田:実習では、お子さんからご高齢の方まで、いろいろな方々とお会いして、自分など看護師として何も手助けもできてないのに、患者さんがお礼を言って帰られる姿を見て、はじめはびっくりしました。

患者さんが医療費を払った上に、「ありがとうございます」と感謝をして帰られるのを見てこの関係はいったい何なのだろうと不思議に思いました。

一方で、患者さんを目の前にして満足なケアができない、全く身動きがとれないという経験をして、もともと自分の思い描いていた看護の仕事と現実に大きなズレを感じました。

ユニフォームもナースキャップも、自分の身にそぐわなく感じ、看護の仕事を続けていくべきかどうか何度も考えました。

どのようにして、不安な気持ちや迷いを克服されたのでしょうか。

岡田:やはり、「一度始めたことは最後までやりたい」「きちんと看護師の免許を取るまではやろう」と思っていました。

あと、40名ほどいた看護学校のクラスメートの存在がすごく支えになったと思います。

お互いに隅から隅まで知っているというような関係でしたので、実習でへこんでいる時は、同じグループの友人たちで声をかけ合い、お互いに助け合いました。

外科の混合病棟で8年

看護学校の卒業後、すぐに順天堂に入職されたのでしょうか。

岡田:順天堂の看護学校卒業と共に、順天堂医院に入職しました。

入職されてからは、どのような診療科をご経験されたのでしょうか。

岡田:入職後すぐ、61床の病室がロの字形に配置されている外科の混合病棟に配属されました。

混合病棟でしたので、婦人科・一般外科・形成外科・泌尿器科など、合わせると一日10件を超える手術が行われるのが日常でした。

新人の頃は、やはり仕事に慣れるまで大変だったでしょうか。

岡田:そうですね、はじめは先輩の方々にいろいろと指導していただきましたが、「じゃあ1回見たら、自分でやってみて」という時代でした。

先輩に「自分でできるね」と言われたら、「はい」と言って必死に覚えましたし、日々の実践の中で患者さんに教えてもらう、というような感じでした。

その後、現在の看護部長になられるまでは、どのような道のりだったのでしょうか。

岡田:先ほど述べた外科の混合病棟で8年間勤務したあと、実は一度順天堂医院を退職しました。

「やりきった」という思いで、約1年看護の仕事から離れ、バックパッカーでインドやネパールへ行き過ごしました。

海外から帰って来たときに元の上司に東海大学医学部付属東京病院を勧められ、外来で勤務しました。

3年数か月勤めた後にはもう一度海外へ行き、帰国してからはパートタイムで仕事をしていました。

管理職になることの覚悟

2度ほど看護の仕事を中断して海外に行かれていますが、何か特別な理由があったのでしょうか。

岡田:もっと違うことをやりたい、海外行きたいという思いのほかに、実は当時、主任になるのがどうにも受け入れられなかったのです。

次に主任になる世代で一度退職し、その後就職した東海大東京病院で主任となったことは、退職理由の一つであったと思います。

管理職になることに抵抗があったということでしょうか。

岡田:そうですね、「自分のやりたいことをやる」「人に対する配慮ができない」というのが当時の自分自身に対する評価でしたので、自分が主任になるのは、身にそぐわない、できないと思っていました。

では、その後どのようにして管理職に就かれたのでしょうか。

岡田:順天堂医院の1号館が改築され人手を必要としていた時期があり、「順天堂に戻ってきたらどうか」と声がかかりました。

本当にたまたま自分もパート勤務をしている状況でしたので、順天堂医院に戻ることができました。

戻していただいた恩義もありまして、戻ってからは、努力して少しずつ意識を変えて管理職を受け入れてきました。

耳鼻科外来、病棟を何か所かローテーションし、主任、師長、教育課長を経験しました。

そして順天堂大学練馬病院へ2009年に異動し看護部長として働いています。

管理職を受け入れるのに、どのように意識を変えられたのでしょうか。

岡田:師長になる時も少し抵抗しましたが、主任になった時が一番辛かったです。

主任という立場は複雑で、その領域の実力も問われます。

上司・部下の関係だけでなく、看護部や病院がどう動いているのか、全体の関係にも気を配らなければなりません。

ですが、情報量が少ないので実感が湧きにくいのです。

あの頃は、すごく尊敬する婦長さんのイメージがあり、「ああ、婦長というのは、こういう人のことだなあ」とか「あんなふうにはとてもなれない」と自分とのギャップにばかり目を向けていました。

でもある時から、「私なりにやればいいんだ」「こういう管理職がいてもいい」と少しずつ意識を変えることで、自分が管理職であることをポジティブに考えられるようになりました。

看護部長に就任されて、すでに8年目になられるのですね。

岡田:はい、まさか自分が看護部長になるとは思いませんでした。

看護部長はなりたくてなるものではなく、いろいろなめぐり合わせの結果であると思います。

私の場合、一度辞めた私を戻してくれた順天堂の懐の深さ、辞めた後も気にかけてくださった元上司の存在、病院が拡大して管理職が必要になったこと、タイミングよく戻れたことなどが合わさり、今があると思っています。

キャリアを支えたもの

素晴らしいですね。長年看護師を続けて来られた秘訣は何でしょうか。

岡田:自分に看護師の仕事が合っている、看護師としてやっていけると思ったのは、実は10年以上経ってからです。

若い頃は周りが何も見えていなかったのですが、5年、10年と経験を積んで色々な事を実感していく中で、見えるようになったものはたくさんあります。

例えば、順調に物事が運ぶこともあれば、踏ん張ったり我慢したりして乗り越えなければいけないときもある、ということを学んだ時に、一皮剥けたと言いましょうか、キャリアの考え方が展開してきました。

難しい状況を乗り越える支えとなってきたものは何ですか。

岡田:最初の勤務場所のグループでの付き合いが、30何年間いまだに続いていることをみても、やはり順天堂の人間関係の良さはあると思います。

順天堂の学是は「仁のこころ」つまり「人在りて我在り、他を想いやり、慈しむ心」です。チーム医療を実践する根本原理は「患者さんのために、みんなでやろうよ、助け合おうよ」ということだと思いますので、お互いの関係性の中で、自分も変わるし相手も変わる、というお互い影響し合う関係でいることを大切にしています。

後編に続く

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