No. 78 武藤英理様 (羽島市民病院) 前編:自分と違う考えを持つ人が自分を成長させてくれる

No. 78 武藤英理様 (羽島市民病院) 前編:自分と違う考えを持つ人が自分を成長させてくれる

  • 2017年11月7日
  • インタビュー
No. 78 武藤英理様 (羽島市民病院) 前編:自分と違う考えを持つ人が自分を成長させてくれる
No. 78 武藤英理様 (羽島市民病院) 前編:自分と違う考えを持つ人が自分を成長させてくれる

今回は羽島市民病院の武藤 英理看護部長にインタビューさせて頂きました。

看護部長として部を率いる武藤看護部長の手腕に迫ります。

 

人の最期を見た経験が強く印象に残った

 

看護師を目指されたきっかけをお伺いできますか。

 

武藤:漠然と医療職になる思いが高校の時代からあり、その中で看護に行き着きました。

周りに看護師がいた訳でも関わったという訳でもありませんでした。

しかし仕事を単純に考える上で手に職をつけるという所から、色々な医療職の中で看護師に決めました。

 

看護学校はどのように決められましたか。

 

武藤:体系的な学問として学びたいという考えがあったので、専門学校ではなく短期大学に進学するために名古屋へと向かいました。

今ではその学校も大学になっているので、看護が学問的にも専門職となり始めた頃に進学したことになります。

 

進学して戸惑った事や驚いた事はありますか。

 

武藤:色々な事が初めてだったので「こうすべきである」といったものが無かったため、知識を吸収する面ではよかったと思いますが短大時代に学習した事は一部に過ぎなかったと感じます。

知識だけの部分が薄いものになってしまった事もあり、今は教育と実践という事を実践する場において大切な信条にしています。

 

印象に残っている患者さんのお話などはありますか。

 

武藤:学生の頃のお話ですが、受け持ちをさせていただいた患者さんが未成年だった事がありました。

心臓の手術だったので葛藤もあり、単に病気をみるという事だけではないという事が印象に残りました。

心臓の手術は全身のケアを前処置の中で行う必要がありますが、未成年の方と精神的にはそれほど変わらない中で精神的な援助を行わなければならないという事に対しても戸惑いを感じました。

 

病院はどちらに入られたのですか。

 

武藤:県内の基幹病院に勤めました。

助産師になりたいという気持ちがありまして入職の際に気持ちを伝えたところ、最初の配属は産婦人科になりました。

そのあとに助産師になったわけではありませんでしたが、看護師の勉強しかしてこなかったのでお産にまつわる事や、婦人科の疾患と幅広く見る事が出来ました。

 

どのように、新人時代を乗り越えられましたか。

 

武藤:やはり先輩たちの動きを見るという事でした。

看護短大は実習時間が短く、技術的にはかなり未熟であったと思います。

現場でできない事もあったので、覚えないといけないという事はありました。

 

難しかったケースはありましたか。

 

武藤:就職した職場には1年3カ月いましたが、その中で私は人の死というものを初めて経験しました。

婦人科の悪性腫瘍を患っていた方で、人の最期を見た経験が私にはなかったので思い出として残っています。

その方は踊りの師匠さんであったので、死後の処置の後に着物を着せてくださいという事があり、そういった事を通して人の最期を見た事が強烈に印象付いています。

 

目標にした先輩はいましたか。

 

武藤:新人の時は先輩方の技術や人として尊敬出来た所がたくさんありました。

特に主任さんの姿は印象に残っています。

その人たちの年齢になりましたが、あれだけの影響力を今持つことが出来ているのかという事はなかなか振り返りが出来ていない所でもあります。

 

出来ない事が出来るようになることで前向きになれる

1年3カ月務められた後はどちらに行かれましたか。

 

武藤:1年3カ月つとめた後は開設される救命救急センターに異動となりました。

2年目となり三か月後にICUを開設する事になっていて、その研修として大学病院の手術室へ行く事になりました。

今までの仲間とも別れた後、新たな職場で産婦人科の経験だけで救命センターに行ってくださいとなった時にはびっくりしました。

 

まず手術室ではどのようなご経験をされましたか。

 

武藤:研修生だったこともあり一人で担当する事が出来る手術は数少ないものでした。

布をかぶせると術場しか見えない事もあって、人を人として見る事は改めて難しい事だと感じました。

また術後一週間が経過しても痛みがあるという事の意味が分かりました。

特に、脳外科病棟や心臓外科病棟にいるときは、一見すると傷は皮膚だけですが体の中で起きている事はなかなかわからない事があります。

しかし、術場にいる事で骨を切る事や体の中を広げる事をしているので見えないところで痛みが出ているという事や精神的な痛みがわかるようになりました。

中間管理者となってからスタッフには手術室に見学に行ってもらうようにしました。

どうしても病棟であれば痛みで動けない方に動くように促したりします。

しかし手術の実際を知るだけでも痛みを持つ患者さんの苦しみを共有する事が出来、適切なケアが提供できるので行いました。

 

その後のICUでの立ち上げの時はどのようなご経験をされましたか。

 

武藤:ICUとCCUがありましたが、CCUに配属されました。

私は産婦人科での経験が何に活かせるかがわからず、本当に一から習うことばかりでした。

その当時は大変でしたが今になって思う事は、できない事が出来るようになりたいという思いがあるのでできない事で落ち込むというよりも前向きになる事が出来たと思います。

性格面もあるとは思いますが、人に言われたことに対しては「なにくそ」と思い勉強を頑張ろうと思っていました。

 

自分と違う考えを持つ人が自分を成長させてくれる

部署異動の声がかかる方の中には断られる方もおられるかと思います。

何かアドバイスはいただけないでしょうか。

 

武藤:私は1年3カ月で研修に行った後、12年程そのまま救命センターにいました。

その時に病院から12年たったこともあり、一度一般病棟に異動して下さいと言われたので脳神経外科・心臓外科の病棟で6年ほど勤めました。

そこではチームのリーダーや病棟の主任といった仕事をしました。

私が看護師という仕事をずっと続けていこうと思ったのはその時でした。

変わる時にはもちろん仲間とも離れる事になるので不安もありましたが、自分が何年も長く在籍すると自分がなかなか成長できないという事がわかってきました。

私が成長できると思うのは、やはり自分と違う考えの人と会った時だと思います。

しかし、一緒のところにずっと長くいると誰かに何かを言われることも無くなっていきます。

自分自身がどこに行きたいのかという事はありませんが、進んで変わることは大切にしていますし、そういわれた時はチャンスだと思っています。

そして、管理者になった時にも私はあまり長くいてはならないと考えているので、次に新生児センターで3年ほど師長をやり、その後救命センターに戻って師長をやるなどもしましたがどれも3~4年ほどで異動しました。

変わるという事に関しては、自分自身が次に何ができるようになるのかという事で成長できるという感じは常にあります。

また、組織の中で部署を変えるだけでなく、組織ごと変わる事もありました。

 

病院を変えたという事ですか。

 

武藤:救命センターの師長になるまでは同じ総合病院で、26年勤めていました。

その後は民間の病院へ行き、看護の短期大学の立ち上げに教員として携わらせていただいてから今のこの病院に来させてもらいました。

 

初めて師長になられたときもチャンスと思われましたか。

 

武藤:それだけは今でもなかなかそう思えない所もあります。

臨床で仕事をしてスタッフと共に一緒に考える事がとても好きだったためです。

どうしても師長になると、責任が付いてきてもう一つの重荷になるような感じがありました。

ちょうど主任になって仕事をしているときが一番楽しく看護師を続けようと思った時がその頃でしたので、うれしかったという事はあまりありませんでした。

後編に続く

 

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病院概要

羽島市民病院

 

白岩 憲子
A-LINE株式会社 シンカナース副編集長
聖路加国際大学卒業 看護師 保健師 東京武蔵野病院